芥川龍之介のごく初期の作品に「孤独地獄」というのがある。地獄は普通、地の下深くにあるのだが、「孤独地獄」だけは此の世の何処へでも忽然と現れる、というのだ。大正五年、『新思潮』に芥川がこの作品を発表した頃、川端康成は大阪の茨木中学で文学を志していた。
若い頃の川端は、芥川の作品では「歯車」と「西方の人」しか評価しないようなことを言っている。だが、残されている学生時代の読書ノートには、志賀直哉と並んで芥川のものが多いそうだ。川端は志賀を随分持ち上げたけれど、それは追い越せる相手と見做したからではないか。ともに孤独地獄を彷徨うものとして、文学上の鎬を削るべき相手と観たのは芥川龍之介に対してだったろう。
関東大震災の数日後、今東光と共に芥川を見舞いに行った川端は、震災当日以来市中をほっつき歩いて見て廻った話をし、その日のうちに芥川と吉原の惨状を見に出掛けたという。そのことを書いた文章には、颯爽とした芥川を少しばかり憎みながらも「とことこ附いて行った。」とある。私はこの「とことこ」という言葉に川端の曰く言いがたい思いを感じる。
芥川が自裁したのは三十五歳。遺稿となった「西方の人」「続西方の人」は、西洋の文学にとって核となる聖書を取り上げたもので、体力的にも精神的にも限界に追い詰められていた芥川の白鳥の歌だった。
川端は「文学的自叙伝」の中で、〈私は東方の古典、とりわけ仏典を世界最大の文学と信じている。私は経典を宗教的教訓としてでなく、文学的幻想としても尊んでいる。「東方の歌」と題する作品の構想を、私は十五年も前から心に抱いていて、これを白鳥の歌としたいと思っている。東方の古典の幻を私流に歌うのである。書けずに死にゆくかもしれないが、書きたがっていたということだけは、知ってもらいたいと思う。〉と記した。その時、川端は三十五歳。
敗戦後、川端は〈あなたはどこにおいでなのでしょうか。〉という一行を冒頭と最終行に据えた「反り橋」「しぐれ」「住吉」の連作を書く。「反り橋」では〈仏は常にいませども現ならぬぞ哀れなる〉と梁塵秘抄のうたで始まり、「しぐれ」では〈懶惰によりて臥するにもあらず。詩作に耽りて臥するにもあらず〉と仏典からの引用で始まり、「住吉」では〈あさがほの花の上なる露よりも〉と住吉物語のことばで始まるが、この三作には日本の古典、美術、詩歌、音楽、のさまざまが鏤められている。
それから二十二年経って、やはり冒頭に〈あなたはどこにおいでなのでしょうか。〉と置いて、謡曲「隅田川」の一節〈あれは我が子か、母にてましますか〉で始められる「隅田川」が書かれた。けれども「隅田川」の最後は、ぱたりとペンを取落とすように〈それも今はむかしとなりました〉と閉じられて、これが川端の小説として最後の作品になった。
「反り橋」「しぐれ」「住吉」そして「隅田川」、これらは芥川の「西方の人」に比肩するものとして川端が構想した「東方の歌」だったのではないだろうか。