御免ください、カメ子です🐢
「(彼女は)生まれて初めて物語を表現し、人を想う気持ちを強くしたようです」
あるTVドラマの中でこんなナレーションが流れた。そういうことだなと、私も思う。
逆もまた真なり、人を想う気持ちが強く深くなければ、物語を表現することはできない。
独りよがりでは言葉は空に浮き、物語は届かない。
この数ヶ月、三つの作品に取組み、ピアノ演奏と共にそれらを人に聴いてもらう二日間を企画した。
「ピアノと朗読の会」として、作曲家でピアニストの友人と二人、意思の疎通はメール交換で、限られた時間の中での数回の稽古を経て、本番を迎えた。終わってみれば、ともあれあの日の精いっぱいは尽くしたという小さな達成感と、それをはるかに越える挫折感が残った。
ただ...、「やらなければよかった」というのではない。反省点は多々あるものの、やはり表現したい気持ちがそれを上回ってしまうことに、改めて気づかされる。
本番まであと1ヶ月半という頃、ある家族に演目の一つ、小川未明の「月夜と眼鏡」を聴いてもらった。病室という特別な空間での観客3人だけの朗読会。物語が介在する僅か20分足らずの時間、互いに忘れられない夜になった。
本番ではドビュッシー「月の光」のピアノ演奏と共に聴いてもらう仕立てになっていることを伝えると、その曲が彼らにとって絆とも言える特別なものであることを知らされ、驚いた。清らかな瞳の高校生の娘さんは、月にちなんだ素敵な名前の持ち主だった。
その後の本番までの日々は、その家族(正確には元家族)に届く表現を、という思いで取り組んだ。
私にとって朗読とは、そういうものなのかもしれない。
4月に入り、病床にいた友人は、満開の桜の下、彼方へ旅立っていった。今頃はきっと「白い門のある家」で、得意の歌を皆に披露しているに違いない。
・・・to be continued in the era of REIWA・・・
法律事務所の二年生、朗読塾では6年生(@_@;)
永遠の初心者 🐢
「ねぇねぇ、神様が季節を間違えたのかなぁ。僕達お日様に向かって、もっともっと大きくなろうと思っていたのに、今日突然白い布団を掛けられて、苦しくてたまらないんだ」赤や黄、紫に橙、色とりどりの花は、向かいに佇む大きな木に話しかけます。
「そうねぇ、私もこんな白い化粧をさせられて寒くてたまらないわ。私はね、一番綺麗な姿をみんなに見てもらえる時が本当に短いから少しでも長く、この姿を楽しんでもらいたいの」桜の精は、チューリップにささやきます。
「私、いつも考えている事があるの。みんな私を大切に想っていてくれているのかしら。お花見って言いながら、私の下でただどんちゃん騒ぎをしたいだけなんじゃないかなぁ」
「それなら、ここに行ってみるといいよ」
チューリップは、風から受け取った1枚の葉書を桜の精に渡します。
それから3日経った4月13日の土曜日の午後、桜の精は青く高い空を見上げながら例年以上に誇らしく咲き続けている仲間に、ちょっと微笑んでみせると新宿にある慈母会館へと向かいました。ここで櫛部先生の朗読会があるのです。『花を埋める』と『花と楽人』の2つの作品の朗読が、始まりました。櫛部先生の凛とした居住まいから紡ぎ出される言の葉、この日の為に特別にあつらえた桜色の衣をまとっている摩有さん作の
可愛らしいお人形。そして
それをたおやかな眼差しで見守る観音様。これらがまるで、三位一体の様に静かに溶けあっていきました。
「私、わかったの。みんな私を大事に想ってくれていてそれぞれの心の中に私を留めてくれているってこと」そう言うと桜の精は、満足そうな笑みを浮かべて帰って行きました。
4月 散りいく花びらに想いを寄せて
桜の精のお話しでした。
久しぶりの登場らんらん🐰
カメ子のつぶやき 🐢
このところの天候異変、シェイクスピアはその昔、アテネの森に棲む妖精界の王様と女王様の仲たがいがその生みの親といってたけれど・・・、さて。
異常な蒸し暑さに襲われた7月1日、けやきの森の季楽堂はひととき静謐な空気に包まれた。妙有先生と作曲家・琵琶奏者の塩高和之氏との共演は、極上の時間だった。
先生の語りはいつも静かにさざ波のように始まり、次第に大波あり嵐ありそして夕なぎあり、聴き手はいつの間にか小舟に乗ってその海に乗り出し物語の風景の中に放り出されている。声の水先案内人とでもいうか、いつの間にか「語り手」は消えて「物語」が立ちあがってくる。聴く側はひと時其々にその世界の住人になる。そして、その物語だけでなくそこに居る私と物語が融合して私だけの世界を持つことをゆるされる。
共同作業をする時、息が合うとか呼吸を合わせてとか言うけれど、あの晩の二人は呼吸などしていないのではと思われた。
高い技術を持った人同士の共演は、時に力の見せ合い?ぶつかり合い?のような形で迫力あるパフォーマンスを見せるが、二人は向かい合って掛け合いをしたのではなく、その眼差しは同じ方向にむけられ、其々に追求してこられた「平家物語」と「耳なし芳一のはなし」を丁寧に誠実に披露され、妙有先生の語りが塩高さんの琵琶を呼び、塩高さんの琵琶が妙有先生に寄り添って支え、物語の奥深さをこれ以上ないくらい繊細に表現された稀有な瞬間が連なった。あの場にに立ち会うことができて本当に幸せだった。きっといつまでも忘れない。
昼の部を聴いた友人から「櫛部先生の壇ノ浦、あれくらい静かに読んでも、壇ノ浦のイメージが損なわれることないどころか、却って悲劇性がしみじみ伝わってきますね」とメールがあった。
あの日の先生は、どこかいつもと違う雰囲気をまとっていた。先生と出会って4年が過ぎ、本番でも常に落ち着いて堂々としておられるように見えるが、内心は人並に緊張もされ、神経も張りつめておられるのだということがようやく分かるようになってきたが、あの日は妙に肩の力が抜けていて、何か別の世界に居るような感じで、もしかしたら体調が悪い?あるいは身のまわりに何か異変が?と懸念していた。昼の部、あまりに静かな導入部に、やはり何か違うと。
そして、昼の部を終えた中休み、飼い猫Kの訃報に接した。
少し前に危ないかもしれないと聞いていた。弱っている生命を目の前にして、ただ見守るしかないほど切ないことはなく、その中で今回の稽古を重ね、本番三日前にKの最期を看取りあの夜があったと知って、腑に落ちた。
先生は大きな喪失感に包まれた中で平家物語を語られた。あのライブには見えない助演者がいた。
「出来た子でねぇ、(私を気遣って)三日前に逝ってくれました」と言葉少なに語られた。6月28日の早朝だったというその日の夜に、それは美しい満月を見た。Kは、潮の満ち干をつかさどる月の女神のもとに旅立っていった、そんな気がしてならない。
昼の暑さが鎮まり日が傾きかけた頃始まった夜の部は、圧巻の舞台だった。
・・・to be continued・・・
合掌 🐢
カメ子のちょこっと寄り道&朗読修業 13 🐢
2017年も残すところあと数日、本当にあっという間の一年だった。
今年、天候異変という言葉を何度口にしただろう?春夏秋冬、どれもどこかずれている、らしくない、居心地の悪さを残して気づいたら次の季節の中にいた。秋なんてほんの数日しかなかったような・・・。
子供の時分はこんな風ではなかった。一日一日が積み重なって、季節がちゃんと時を経てそれらしく移っていっていた。梅の蕾がほころんで春の訪れを告げ、桜が散って新緑の頃となり、梅雨時の鬱陶しさと甘やかさの後でじりじりと焼け付く夏の日差しを浴び、朝夕の空気がひんやりとしたかと思うと次第に木々が色づき、紅葉を愛でたのち落ち葉の季節を迎え、冬一番の北風にコートの襟を立て、木枯らしの季節がやって来てすっかり木々が裸になると北の国から雪の便りが聞こえてくる。すべてが折り目正しく順々に運ばれる・・・、それが私の子供時代だった。豊かな四季の変化を子供の私は当然のことと享受していた。
そんな当たり前だった日本の自然風景は、もう本の中にしかないのだろうか。どこか懐かしい、五感に訴えかけてくる物語に奥行と豊さを感じる。懐かしいと思わざるを得ない今のこの国の環境はおかしい。温暖化阻止、原発反対・・・首相官邸前のデモに一度だけ足を運んでもう一年以上になる。私が継続していることはささやかな節電、省エネ、食べ物を粗末にしない、くらい。自分の中に鈍感になっていく部分と鋭敏になっていく部分が同居している。
カメ子ファンの皆さま(がいるかどうかはさておき)、ご無沙汰いたしました。
m(_ _)m
年頭に掲げたテーマ『明日の日が あると思うな 今でしょう』に従って、やりたいと思ったら、アンテナに引っかかったら、頼まれたら、迷ったら、とにかく行動する方を選ぶと決めてこの一年をスタートし、有言実行した。
身の程知らずな、分をわきまえない企画にも無謀な挑戦をした。オーバーペースを自覚しつつ、たくさんの失敗とささやかな成果を手にして、走り続けた一年だった。
というわけで、このところ寄り道レポートも修業報告も棚上げ状態でした。ご容赦。
身体は昔のように言うことをきいてくれなくなったけれど、心は新たな出会いや発見を嬉しく感じることを忘れていない。学ぶことが楽しい。出来れば誰かとそれを共有したい、知りたいと思っている人がきっとどこかにいると信じている。切ない別れもいくつかあったが、新たな出会いや再会に恵まれた一年だった。
先日、20代の頃からの友人と訪れた銘酒処で、女将に『而今(じこん)』という日本酒を薦められた。仏教用語で「今の一瞬」を意味するそう、過去や未来に囚われず今をただ精一杯に生きるという意味を込めて命名されたという大吟醸を、感無量で味わった。
来年は少しペースを落として、今年まいた種がちゃんと芽を出すように水遣りをして、時期が来たらちゃんと花が開くように、こつこつ暮らしていこうと思う。稽古場でもらったたくさんのダメ出しは賞味期限なしのお得な肥料、上手に使って綺麗な花を咲かせるぞ~ \ (*^-^*)/
~カメ子のおススメ寄り道情報~
「漱石山房記念館」⇒http://soseki-museum.jp/
入館料300円、楽しめます!
・・・to be continued ・・・
カメ子も早や5年生 🐢
カメ子のちょこっと寄り道 12 🐢
昔から、やらなくてはならないことがある時ほど、他に気をそそられることが目に付き、例えば試験の前日にどうしても編み物を完成させたくなったり、部屋の片付けを始めたのに偶然見つけた昔のノートを読み耽ったり、でも頭の片隅にはやらなきゃいけないことが居座っているので脳内熱量は倍増して、脳ミソがグツグツ煮えたぎってしまう。結果オーライの時もあれば、計画性のない駄目人間を自覚させられることも・・・、多々ある。
今回は、結果大大大オーライの寄り道ふたつ。
ひとつは、Kカンパニーの「クレオパトラ」、タイトルロールのプリマ中村祥子さんにノックアウトされた。バレエはほんのちょっとかじっただけの身だが、それでもわかる技術の高さ、表現力の豊かさ、そして最終場でなにもかもを文字通り「かなぐり捨てた」エンディングに圧倒された。単に美しいだけでなく、形を崩してなお美しい、美しさに凄味が加わった姿に言葉を失った。カーテンコールでは惜しみない拍手がいつまでも続いた。私も、遠くの席から豆粒位にしか見えない姿に、掌が真っ赤になるほど拍手を送った。はぁ~~~。ブラボー、ブラビッシモ!
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そしてもうひとつは、妙有先生が客演された浅草リトルシアターでの樋口一葉「わかれ道」。
その日は十五夜、職場から浅草までダッシュで辿り着く。曇り空の向こうに隠れていたお月さまが、終演後、人影もまばらになった街の上空に姿を現した。街の灯りのせいか、漆黒というより、濃紺の夜空にうっすらと漂う雲間に見え隠れする凛とした姿が、本当にうっとりするような美しさで、「わかれ道」の余韻をやわらかく包んで見守ってくれるような清浄な煌きをたたえていた。
このところの天候異変、急激な冷え込みで先生は風邪をひいてしまわれた。顔がひとまわり小さくなっている。第一声を聴いて、これで最後までもつのだろうかと心底不安になった。今まで後で知った体調不良の話はそれを感じさせないパフォーマンスで驚きとともに受けとめたことがあったが、こんなことは初めて。が、私の不安は徐々に解消され、むしろこんな形もあるのだと舞台上の先生に目が釘付になった。
日頃の先生の表現が繊細なタッチの水彩画だとすると、あの夜の舞台は逆に幾重にも塗り重ねられた油絵のよう。声に凄味があった。それと、何時にも増して切替が瞬殺とでも呼びたくなるほど、人間わざ、とは思えなかった。もしかしたら、体調不良ゆえに声の質やボリュームは落とさざるを得ず、それを補うべく、また、今回の企画に沿うべく、いつもより芝居っ気?を少し強調されたような・・・。
私が客席でそう感じたのは、会場の違いによるところが大きかったのかもしれない。リトルシアターは、やはり劇場なので、つくりや照明の関係から客席の視線も舞台に直線的にフォーカスされ、よくある朗読会の自然光のもとで聴く時のナチュラルで身近で物語ってもらっている感じ、ある意味目をつぶっていてもよく、演者さんを見なくても成立するような姿とは違っていた。
どちらがどうというわけではなく、やはり朗読の形は同じ作品であってさえも様々あり得るのだなと感じた。それもきっと妙有先生ならではなのだろう。
(すべて私の勝手な私見です。 的外れ・見識違い、ご容赦ください。)
ふたつの舞台から大きなエネルギーをもらった。
今、その瞬間に持てる力をすべて出し切ることの勇気、潔さ、美しさに憬れる。
末端の末端の小さな存在ではあるが、誠実に、魂をこめて言葉と向き合いたいと改めて思った。
・・・to be continued ・・・
カメ子はひよっ子修業中 🐢
まるで梅雨時の様な雨☔続きの中で、強力な晴れ女(?)のおかげだろうか。お日様が味方してくれた、8月12日 飯能のこども図書館で開催された「こども図書館まつり」に「小函の会」として、記念すべき10回目の出演。演目は、『三びきのやぎのがらがらどん』『ムーミン谷へのふしぎな旅』『詩』『夕あかりの国』『おばあちゃんの野菜畑』昨年参加できなかったらんらんは、この日を誰よりも心待ちにしていたのだ。
「うれしい❗たのしい❗大好き❗」ドリカムのメロディーが、頭の中を駆け巡る。みんなと声をのせて演じるのって、本当楽しい。
普段の朗読の稽古は、孤独なランナー 先生がダメ出しという伴走で一緒に走ってくださるけれど....
ゴールはどこ?み、み、見えない‼長距離(長編)になればなおさらゴールは、遥か彼方だ。なんとかかんとか先生からの「はい、よく頑張りましたね」の一言を頂きゴールへとたどり着け、孤独な戦いから解放されるのだ。
「こども図書館まつり」はというと、差しずめみんなでワイワイ賑やかな球技大会かしら。もちろん、きちんと引き締めてくれる審判(演出)の先生が、いてくれるからこそだけれど。みんなで渡し合う言葉のパスが面白い。人の言葉を聴いて受けて投げて、1年に1度とても勉強になる時間。先生の、朗読の時とは違ったダメ出しも芝居の稽古の様でまた嬉しい。
こども達はもちろん、聴いて下さったお母さん達の顔には、みんな幸せそうな微笑み。日常の忙しさをしばし忘れて少しでもゆったり、ほっこりした気持ちになってもらえればなぁ。また来年もお客さん達の笑顔に逢いたい。
らんらん😃🐰
私の朗読修業ーその12 🐢
約7ヶ月取り組んだ「袈裟と盛遠」、七分の仕上がりで一旦終了、というか例によって棚あげ。この先は、いつか人前で披露する時(があるかどうかは別として)その場でどう完成させるかだと、ダメ出しと励ましの混ざった言葉をいただいて、名残惜しいけれどさすがにもういっぱいいっぱいで本を閉じた。
歴史を紐解いて、京都の恋塚寺を訪ね、1953年制作の映画「地獄門」を観て、はては芥川龍之介の墓前に佇んでみたりもし…作品の周辺をうろうろして、稽古でたくさんのダメ出しをもらって、初見の時から思えば自分の内に得たものは数知れない。技術的なもの、作品理解の深まり、ほんの小さな手掛りでも何かを得たと感じる瞬間は嬉しい。心の中で小さなガッツポーズをしてみる。と同時に、腑に落ちてみればいかにも当然と思われるそれらに辿り着くまでこんなにも時間が必要なのかと、自身の未熟さ不器用さを思い知る。
その一歩一歩を妙有先生が見届けてくれる。出来たことも出来なかったことも全てお見通し、怖い、いや凄い、いや有難い。
梅雨は明けたはずなのに曇り空や雨模様が続き心配された7月30日、午前中の雨はお昼にはすっかり上がり「けやきの森の季楽堂」へお客様が到着される時分には雨傘は要らなくなっていた。(そういえば、私は超晴れ女!)
雨上がりの湿った草木の匂い、夏の終わりかと錯覚するような蜩の声、そして季楽堂の持つ何ともいわく言い難い雰囲気、生きとし生けるものだけでなく彼の世の魂までも迎え入れてくれるようなその中で、妙有先生の朗読を聴いた。
泉鏡花と久生十蘭の世界。久生十蘭『生霊』の最終盤、おじじ・おばばの登場シーンでは思わず落涙しそうになった。可憐な孫娘と祖母、声の年齢差はもちろんのこと、先生の表情・顔かたちまで一瞬にして50歳以上の落差が見て取れ、物語に感じ入るとともに、す、凄い、と震えた。
朗読とは無縁の世界の友人知人も口々に「いい時間だった」「本物をみた」と声を寄せてくれた。
(カラスノエンドウさん、残念でしたね。お気持ち、お察しします。)
~カメ子の雑感「袈裟と盛遠」~
二人は、本能的に惹かれあいながら現実の世界ではかみ合わないまま、心の一部はあけすけに表出させながら、互いのすべてを受け入れるまでの至上の愛には手が届かないまま、心の揺れを感じつつ・・・
『げに人間の心こそ 無明の闇も異ならね ただ煩悩の火と燃えて 消ゆるばかりぞいのちなる』
と、袈裟は自死の道を選び、盛遠は永遠の後悔の空を彷徨う。
世のしがらみに束縛されず、出会いのタイミングさえ整っていれば、この上なく美しいひと組の男女になっていたかも知れない二人。彼らが持つある純粋さは、人々が憬れ夢見るそれではなく、危険なとぎすまされた刃のような純情。それは互いを高めあうのではなく、傷つけ切り刻んで破滅へと向かう。う~、これも愛?愛って何?
・・・to be continued・・・
カメ子もジプシー、ボヘミアン 🐢
私の朗読修業ーその11 🐢
梅雨の真っ只中のはずなのに、何だか季節感の曖昧な曇り空の日曜の午後、爽やかな感じさえする風に吹かれて、妙有☆朗読会が開催されるギャラリー食堂『廐戸』へ。酵素玄米と無農薬野菜のごはんのお店は、コンクリート打ちっぱなしの内装に木製のテーブルと椅子が配置された素朴で温かいぬくもりのある場所、その玄関先で妙有先生は私たちを笑顔で迎えてくださった(よっ、看板娘!)
定員20名のところ30名を超える人々で満員御礼状態、椅子代わりのリンゴ箱まで登場。
作家の人となり・時代背景をふんわりと紐解きながら物語の世界に近づきやすくしてくださる導入部のお話に、いつものようについ惹きこまれる。聴く側の頭と心の準備が整って、開幕。
人は、いとも簡単にかけがえのないものを失くす。あの時あちらを選んでいたら、この時こう言っていたら、あの角を曲がらなければ、こんなことにはならなかったのにと、大切なものを失くして初めてそれに気づいて激しく後悔する。取り返しのつかない事態に愕然とし胸は張りさけ気が狂う。
『港に着いた黒んぼ』には、愛と哀しみが同居している。どこにも悪意は存在しないのに悲劇が訪れ、やるせない哀しみが漂い続ける。
人生はかくも救い難いもの、誰もがどこかでそれに耐えているに違いない、という作者の慈しむような眼差しを感じる。
わが身だけではなく、身近な人たち、遠い世界の人たちにも思いを馳せ、そんなあれこれを考えさせてくれる、妙有先生の絶品の朗読でした。聴き逃した方、本当に残念でしたね。
終演後『廐戸』でその日のメニュ-(限定20食)をいただき大満足。畑で作物を育てた人も台所でそれを賄った人も、きっと米や野菜に話しかけながら、その命を丁寧に大切に食卓まで運んでくれたんだなあと思う。感謝。心身共に栄養を補充し「この梅雨を乗り切るぞー」と決意した。
~櫛部妙有☆語録~
どんなに高い集中力を求められる作品でも、表現する側が気持ちを100%出し切ってはいけない。常に2割くらいは余力を残しておく。
読み手が気持ちよくなるのではなく、聴く側の耳に心地よく届く(ための工夫が必要)。全部を握らず、どこからか先は聴き手に渡す。
~カメ子のお薦め映画~
「ザ ダンサー」
ヴィヴァルディの四季『冬』が耳について離れません。
もうすぐ終わってしまいますが、ご興味お時間ある方、是非劇場へ♡
・・・to be continued・・・
カメ子は踊り子・夢見るバレリーナ(じゃなくて夢の中でバレリーナ) 🐢
飯能の厩戸にて行われた櫛部先生の朗読会に足を運び、小川未明の4作品を聴いた。定員を大幅に上回る人々が訪れ、お店のありとあらゆる椅子を総動員してもまだ足りず(Nさんは、なんと林檎🍎の木箱が指定席になっていた)そんな大盛況の中、先生はいつものように、まるで現代国語の先生よろしく、さらりと未明の事を私達観客にわかりやすい言葉で説明しながら、すーとそのまま物語の世界へ入っていく。
私の心が一番震えたものは、やはり最後の作品『港に着いた黒んぼ』の白鳥の姿になってしまった弟と、2度と逢えることはないと悟った姉が「あぁ、私はどうしたらいいんだろう」と深い後悔の念に、さいなまれる場面だ。先生の朗読は、どうしてこうもストーンと心の中に落ち着き、そして響くのだろう。やはり確かにそこに登場人物が存在していて、その人物の気持ちを言葉にのせているからに相違ない。
朗読会終了後、先生を囲んでのお食事会、野菜たっぷり玄米ご飯のヘルシーメニュー美味しかった。
久しぶりの登場らんらん😃
私の朗読修業ーその10 🐢
市立図書館の視聴覚室で開催された「小函の会」の温習(おさらい)会は、『妙有☆朗読塾・番外編公開講座』とでも名付けたくなるような充実の時間だった。
個性の異なる8名の出演者が、其々の好みで選んで稽古を重ねてきた作品を壇上で披露する。それだけならよくある?朗読会、でも「小函の会」はちょっと違う。その作品の、その読み手の裏側を、櫛部先生(小函の会)が目指す朗読というものを、辛口のダメ出しまで添えて先生は惜しげもなく披露された。そして、重松清から樋口一葉まで、何の脈絡もないように見える個々の作品の朗読が、2時間半が終わってみればひとつの大きな流れの中で、ある調和をもって幕を閉じた感じがした(のは私だけだろうか?)。予定時刻を少々オーバーして、16時45分に図書館のチャイムが響き「間もなく閉館」のアナウンスが流れた時、先生の閉会の言葉を受けて、ほぉ~っとため息が漏れた。耳を傾けるこちら側も一心に集中していたことに気づき、それが解けた心地よい疲労感に襲われた。
あの日、誰よりもエネルギーを消費したのは妙有先生に他ならない。全員の朗読を舞台袖でじっと集中して聴き、その余韻の中で生のコメントを飾らない率直な言葉でよどみなく表現される。一人目、二人目・・・と続くうちに、作品だけでなく先生の話にどんどん惹きこまれていった。その解説がなかったら気づけなかった作品の豊かさ、読み手の可能性にも思いを馳せることが出来た。あの日の陰の主役は、もしや・・・。
能の世界では師匠は弟子を決して褒めることはないという。芸の道には完成がないから、師もまた高みを目指す途上にあるからだと。
妙有☆朗読塾の塾生であることを誇りに思う午後だった。
(出演者の皆さん、お疲れさまでした。どれもみな味わい深い朗読でした♡)
・・・to be continued・・・
カメ子はひよっ子・でも気づけば4年生(うひゃっ!?) 🐢
私の朗読修業-その9 🐢
昨年暮れから「袈裟と盛遠」に取り組んでいる。芥川龍之介26歳の作品。歴史上実在の人物を芥川独自の人物考察を加えてドラマチックに書き上げられた男女の愛憎劇。上(盛遠の独白)下(袈裟の独白)で構成された二幕ものの戯曲といった体裁だが、どちらもモノローグなので二人が対話することはない。二人の魂は其々に孤独に彷徨う。綿々と書き綴られた台詞の行間に潜む書かれていない思いを探り続けている。
妙有先生から「この作品は間(ま)が重要。黙り込むことを恐れないで。」と最初の段階でダメ出しされた。自問自答しながら心の内が赤裸々に吐露されるが、饒舌にすべて語りつくしているようでいてやはり文字で現されない心の動きがわんさとある。読み手はそこを蔑ろに出来ない。
朗読と一人芝居の境が曖昧になってくる。そもそも朗読の型を知らない私は、どの作品に取組むときもいつも初心者、拠り所のない不安を抱えたままゴールの見えないスタートラインに立つ。先生は、朗読にはいくつもの表現方法がある、と言われる。作家ごとに作品ごとにそれを探っていけばよいと。作家がその言葉を選んだ時、どんな風に口ずさんだのだろう、どんな音が聞こえていたのだろう、どんな景色が見えていたのだろう。そして筆をおいた時、果たしてどの程度満足していたのだろうか。
アドバイスに従い先に後半の袈裟の独白から始めて四か月、ようやく盛遠へ。「愛って何?」と深みにはまりつつある今日この頃。
~妙有先生☆語録(5月の稽古場から)~
沈黙の方が言葉よりより大きく何事かを伝える力を持つ(ことがある)・・・沈黙の中から次の言葉が浮かび上がってくる、人物の心の動きを捉えようとする時、読み手は沈黙にどれだけ耐えられるか・・・
・・・ to be continued ・・・
オトメ ♡ カメ子 🐢
『The rest is silence.』
カメ子のちょこっと寄り道 11 🐢
行きつ戻りつしながら春が駈け足で過ぎていく。
今年は全国に先駆けて東京で桜の開花宣言があったけれど、あれはたまたま靖国神社の蕾が一輪開いちゃったからで、底冷えのするあの日はやはり時期尚早感は否めず、実際都内のそこここの桜が次々に開花するまでにはもう少し時間が必要だった。でも実はあの日、カメ子の住処を見守る桜樹も一輪だけ花弁を開き、それを見届けるかのごとくその日だけ冬眠から目覚めた彼女は虚空を見上げていたのだった(厶ム、もしや桜の精霊?!)。三寒四温の日々が続く間はまた池の中に姿を隠し、そして気温がほぼ安定し満開を迎えた頃、ジャ~ン、完全復活した。桜吹雪の下で空を見上げる目線の先には樹齢100年を超えそうな老木が・・・二者(ふたり)は交信している、としか思えなかった。
そして今年も巣鴨の染井霊園へ満開の夜桜見物に。人影まばらな夕暮れ時、数匹の猫たちが出迎えてくれた。お隣の慈眼寺に足を延ばし芥川龍之介のお墓で合掌、すっかり日が暮れた空にはまんまるのおぼろ月、最後に出会った子猫がミャアミャアと微かな鳴き声をたてて霊苑の出口まで見送ってくれた。何だか出来すぎの宵・・・私にどうしろって言うの~と見えない誰かに問いかけながら帰路についた。桜が散り急いでいるように思えるのは、私がスローになったせい?
カメ子のちょこっと寄り道 10 🐢
少し前に、シネスイッチ銀座で『ヨーヨー・マと旅するシルクロード(原題:The Music of Strangers)』を観た。
ここ数年に見た映画のうちベスト5に入るくらい魅了された。
そのうち感想を、と思っていたら銀座は明日7(金)まで、渋谷のル・シネマも来週14(金)までらしい。
もしお時間ある方、騙されたと思って是非ご覧ください。情報提供まで。
→http://yoyomasilkroad.com/
興奮冷めやらず、カメ子も踊る ♪♪
カメ子のお便り 🐢
カラスノエンドウさま
はじめまして、池の中のカメ子です。
ただ今冬眠中、生物学的には仮死状態ですが、魂はいつでも自由に好きなところへ飛んでいきます。もちろん、めんどうなときは好きなだけ眠ることもできます。
カメ子は幼い頃、教会の日曜学校で英語の讃美歌を歌うのが大好きでした。意味などわからないまま、呪文のように何度も何度も繰り返し歌い続けました。
英語の授業にはあまり興味はなくて池に戻って眠っていることが多かったのですが・・・、お姉さんが弟を思って詠んだ歌は、こんな風な鼻歌にしてみました。
Here am I, at this side of the world
And there are you, at the other
From tomorrow on, my dear brother,
Mt.Futakami would be you, forever
でたらめちゃらんぽらん英語、ご容赦くだされ~
See you ××
桜が咲くまで冬眠(予定)の カメ子 🐢
作家林京子さんが亡くなった。
長崎の爆心地近くで被爆したのは15歳、長崎高等女学校の生徒であったという。
その30年後、林さんが自らの体験をもとに書かれた「空罐」をテキストとして稽古し始めたのは、櫛部先生の朗読塾に入門して二年が過ぎた頃だったと思う。
「空罐」は母校校舎を見上げるシーンから始まる。戦後30年が過ぎ、廃校になる母校を長崎に訪ねた5人の同級生それぞれが、当時を思いながら、それぞれの事情をかかえている現在までの姿が描いている。
この作品は朗読の先輩Oさんが「おとなのための朗読会」で語られたことがある。
場内がしんと静まって、聴いている方々の糸をひくような緊張がOさんの声に向かっていたのを覚えている。
その後、同じ作品をテキストに選んでしまったのだった。(あの頃から私は無謀。)
強く覚えている先生の、駄目だしの一つは、原爆投下直後、主人公達の状況の表現だった。
「書かれている事、それ自体が十分凄惨なのだから、声にする時は淡々と、、」であった。
最後になってから読む人に明かされる「空罐」という題名の由来となった “きぬ子”という同級生のエピソードが今も深く心に残っている。
昨年から予約して、楽しみにしていた折口信夫「死者の書」の 英訳「The Book of the Dead」が届く。日本語の詩集も最近出版された、ジェフリー・アングルスが長い年月を費やして翻訳した。
で、、、本を開いて、気がついたのだが、私の英語力は高校受験レベルで止まっている。シマッタ。
こんな英訳がありました。
大伯皇女が、謀反の疑いで処刑された弟、大津皇子を思って詠んだ歌です。
「うつそみの人なる我や 明日よりは 二上山を愛兄弟と思はむ」
「Iam one of this world
But from tomorrow onward
I will be thinking
Of Mt. Futakami
As my brother」
英語力皆無の私には、、そのまんまの訳におもえるのですが、きっと英単語一つ一つにも深い意味があるのでしょうね。英語に堪能な方々、どうか無謀な私をお救いください。
カラスエンドウ
カメ子のちょこっと寄り道9 🐢
練馬区内の古民家、けやきの森の『季楽堂(きらくどう)』で開催された尺八と琵琶の演奏会【Eclipse Live Vol.1】を、裏方のお手伝いをしつつ、襖の陰やら廊下の隅やらでこそっと視聴。客席からではなかったので繊細な部分は捉えきれなかったが、琵琶や尺八の音が音階を超えた流れの中で紡がれていく感じ、そしてそれがはっきりとピリオドを打つ瞬間の緊張感と演奏者がスイッチをオフにした後の会場の空気の解けた雰囲気は、じんわりと伝わってきた。
『季楽堂』は、魂が集う場所という気がする。すぐ近くにはスーパーもあればイタリアンレストランもある住宅街の一角に、お稲荷様に護られるようにひっそりと佇む建物が「ようこそ」と私たちを迎えてくれる。目には見えないけれどそこここに何かがいる感じ・・・(ゾクゾク)、しっとりとした風合いの土壁に尺八や琵琶の音色がよく似合う。
休憩後、第二部が始まって間もなく、ふと窓の外に目をやると猫が一匹のそりのそりと近づいて来た。こちらに向かってかしこまった様子でちょこなんと座り、目が合う。どことなくすました表情に変わり「遅れて御免なさい、お待たせ」とでもいうように尺八と琵琶の演奏を・・・間違いなく聴いていた、まるで主賓のような佇まいで。
終演後、座卓を囲み座布団敷きで寛いだ感じの懇親会の席上、ほろ酔い加減の吉岡龍見さんが渋~い尺八の音色をきかせてくれた。その時のそのままの命が息にのりそれが音となって響く。私には十分に魅力的に聞こえたが「アルコールのせいで~~(グチグチ)」と演奏に納得がいかなかったご様子、悔しがる顔が少年のようで可愛かった。
ユニット名の由来を知って、武満徹や鶴田錦史に興味を持ち、佐宮圭のノンフィクション『さわり』を読んだ。以下は、その中から印象的な一文をご紹介。
~一音の響きによって意図的に紡がれる邦楽の「無音の沈黙」はその一音に拮抗するほど無数の”音”がひしめく「間」として認識される。~
又、著者が引用している作曲家武満徹の言葉にも心打たれる。
~沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい~
常日頃、妙有先生は朗読における「間」の大切さを繰り返し説いて聞かせてくださる。そして見事に実践されるそれが、邦楽における、琵琶や尺八のそれと共通していることに気づかされる。「間」を生きるには、人格品格経験等々その人が問われる。何度いわれてもその都度響く定番ダメ出し「心を耕してください」・・・先生の前ではいつも幼子に戻ってしまう。
ところでシェイクスピアは『ハムレット』で、ガートルードにこんな台詞を言わせている。
~Be thou assured, if words be made of breath,
And breath of life, I have no life to breathe
What thou hast said to me.
(安心しておくれ、言葉が息から、息が命から生まれるものなら、私にはお前の言葉を漏らす息も命もない)
簡単に言えば「命を懸けて秘密は守る」ということなのだが、こんな風に詩的表現をするのがシェイクスピア。文章全体が意味する内容とは別に、前半部分の普遍性にドキッとさせられる。 words(言葉)をsounds(音)に置き換えれば、文学(演劇)と音楽に共通する真理が垣間見える。
・・・などと、とりとめなく様々に思いを巡らす機会となった【Eclipse Live Vol.1】に感謝。塩高さん、吉岡さん、Vol.2を楽しみにしていま~す!
そして私は今、芥川龍之介の『袈裟と盛遠』に挑戦中。ハードルが、とてつもなく高い、高くて・・・見えないぞぉ~。
・・・to be continued・・・ カメ子はクロコ 🐢
カメ子のつぶやき 🐢
・・・忙しい、何だかやたら、忙しい。
12月もかなり忙しかったが、年末に向けて頑張るぞ~的な、意味不明なやる気があって公私ともにエネルギッシュに動けていたが、年末年始の休みで休暇モードに切替えたら、年が明けて仕事始めとなってもギアチェンジが上手くできずあたふたしている。何だか脳内海馬の神経細胞が音を立てて崩壊しているような・・・、朝目覚めた時「あれ、今日は何曜日?仕事は休み・・・だったかな?」と、寝ぼける回数が増えてきたような・・・。カメ子にも更年期があるのかしらん、いや、もはや更年期ではなく・・・。
そんなわけで、朗読修行もちょこっと寄り道も棚上げ状態。
以下は賢人たちの言葉、昨年の手帳に書きとめたメモの一部を・・・つぶやきます。
~私たちが自分の人生と思っているものは、誰かによって見られている夢ではないのだろうか(木村敏)~
~私は私の人生を主催する者ではない。私は人生という劇を演出する者というよりはむしろ、そこの出ずっぱりの役者なのだろう。「いのち」とでも言うよりほかないものが「私」を登場人物とする物語を編んできたのだとすると、そこにほころびや矛盾が見いだされてもそれなりに合点がゆく(鷲田清一)~
~作品によってはわからなさ加減を伝えていくものがある。得体のしれないわからなさ、この世はすべて論理だった分かり切ったもので出来ているわけではないから(櫛部妙有:稽古場語録から)~
~All The world's a stage,
And all the men and women merely players.
この世は舞台、男も女も人はみな役者だ(シェイクスピア『お気に召すまま』から)~
・・・to be continued・・・ そろそろ花粉症・カメ子 🐢
この時期になると思い出す。
朗読を始めて二年目、年が明けて初めての稽古での出来事。
私は前年から芥川龍之介「鼻」を読み始めていた。
「禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。」冒頭から読み始めたその途端。「あ、カラスノエンドウさん。止めます。 稽古しました?」と櫛部先生に問われた。
年末年始、私は一生懸命稽古していた。
「口が慣れてしまっているのです・・稽古の仕方は、難しいものなのですよ。」
狼狽する私に櫛部先生は「この作品は止めて、新しいテキストに移りましょう。
また、何年後かに、新たな気持ちで稽古したらよいでしょう。」とキッパリおっしゃった。
一度、口が悪慣れてしまうと、それを外すのは難しい、という駄目だしであったと思う。
あの時‘一生懸命’を向けた先は違っていたのだろうと思う。けれど、未だに「鼻」はテキストにできていない。
年末にテレビで、偶然『ざわざわ森のがんこちゃん』という30分の番組を見た。
娘達が幼いころ見ていた動物人形劇?で、谷啓が歌う主題歌が面白くておぼえていた。
数年前に終了したが、最近‘エピソード0’という名で一話のみ制作されたらしい。
テーマが当初からのものなのか、今回に限ったものなのか不明なのだが、不覚にも泣きそうになった。
この番組は、幼い人たちの心に芥子粒よりも小さい種を落としたかな、と思う。
櫛部先生☆語録
書かれている言葉が本当に伝えたい事は何なのか。その言葉の核の部分をどう捉えていって、それを声の言葉にどう繋いで行くか。それが朗読の表現を形づくっていく基本。
言葉が命を持っていないと、何も伝わらない。
カラスエンドウ
カメ子のちょこっと寄り道 8 🐢
今年は漱石没後100年、先週土曜の午後、夏目漱石国際シンポジウム第2部「世界は漱石をどう読んでいるか?」を聴講した。
アメリカ・ノルウェー・韓国・中国の学者、漱石の作品翻訳に携わる人々による3時間を超える熱い報告に、海外にこんなにも深く夏目漱石と向き合っている人々がいることに驚くとともに、興味深い内容に時間を忘れるほどだった。
シンポジウムに先立って「漱石国際エッセーコンテスト表彰式」も執り行われ、少し前に朝日新聞に掲載されていた最優秀賞受賞の若いカナダ人女性(現在、愛媛県英語指導助手として松山市の県立高校に勤務)はじめ、漱石愛に溢れる外国人受賞者8名が紹介された。各作品では漱石との出会いとその後の人生への影響等がユニークにドラマチックに語られている。→朝日新聞Digitalへのリンク
会場には話題の漱石アンドロイドも初お目見え(私はちょっと苦手だが)、・・・あの世の漱石はどんな思いで今の世の人々の漱石熱を受けとめているだろう。「百年待っていてください。きっと逢いに来ますから。」『夢十夜』でそう遺言したうりざね顔の美女は、もしや・・・。
一方で、今年はシェイクスピア没後400年という年でもあり、興味深い催し物がちょこちょこある。精神を病んだといわれる英国留学時代、漱石先生にとってシェイクスピアはどんな存在だったのだろう。
血なまぐさい歴史劇や主人公がみーんな死んで終わる悲劇の数々は有名だが、ユーモアたっぷりの愉快な喜劇やロマンチックなコメディもいくつもある。シェイクスピアの場合、タイトルや謳い文句に騙されてはいけなくて、悲劇は意外に喜劇的だし、喜劇はその物語の根底に様々な悲劇を内包している。どの作品にも必ず道化が、あるいは道化的存在が登場して、ばかにしたりされたりしつつ、世の中を俯瞰して捉えていたりする。落語のようなやり取りもふんだんにある。『吾輩は~』の語り口など、そのままシェイクスピアに登場する道化の台詞のよう。
シェイクスピアの最大の魅力は、時間空間を超えた普遍性、古今東西世界中の俳優たちが言語を異にしながらも同じ役に向き合ってきた。シェイクスピアは言葉が命だが、役を理解していれば、ある意味、言葉を超えて物語を楽しめる、シェイクスピアは世界の共通語なのだ。(ぁ、そういえば、先のシンポジウムで中国の研究家が「漱石は日本のシェイクスピアだ~!」と熱く語っていた。)
新国立劇場のマンスリープロジェクト(4回連続シェイクスピア特集)第2回に登壇した翻訳家の松岡和子先生が、上海で中国語のシェイクスピア劇を観たとき「中国語はニーハオ、シェイシェイ、ウォアイニイしか知らないけれど、上演された舞台は全部わかった。しかも役者の良しあしまでわかった」とおっしゃった。私もその昔、デンマークでデンマーク語で上演された『ハムレット』を観たとき、同じように感じた。未熟者の私の場合半分?くらいしか理解できなかったが、役者の良しあしは間違いなく分かった。
漱石先生は英国でどんな舞台と出会っていたのだろう。それとも、厳しい経済状況下では劇場に足を運ぶことは叶わなかったのだろうか。ましてや舞台に救われることなど・・・。
・・・to be continued・・・ ストレイ・カメ子 🐢
23日は、第三十回おとなのための朗読会。
この会の第一回は2006年の9月で、群ようこ、宮沢賢治、三浦哲郎の作品が朗読されている。
昨年、これまでの全朗読会の録音カセットテープを聴く機会に恵まれた。今はこの会に居られない方々の懐かしい声も残っている。稽古に稽古を重ねて仕上がった朗読に聴き入っていた。そして、毎回真暗な音響室で、今は懐かしいカセットテープでの録音作業に携わる苦労もしのばれた。
朗読会を微力ながら手伝う立場になってみると、自分が観客である時は気づきもしなかった事のなんと多い事か!何気なく添えられた草花や、照明の調節、静かに流れるBGMにも細心の注意が払われ、一つの舞台が形づくられている。何事もなく滞りなく進行してゆくことの難しさ。
※会場天井のチラチラと消えかかりそうな蛍光灯を、不安定な足場をものともせず脚立に上り、あっという間に交換して下さった西武分館の方々のプロ意識に、感謝。
今回の朗読会、宮部みゆきの長い作品ふたつ、この朗読を作者に是非是非聴かせてあげたい!!
物語を「わたしていく・・」ことのできる絶対必要条件は「物語をわたされた」感覚なのだと思う。
23日、いい一日だった。帰り道、好きだった先代桂文治の落語をもう一度聞きたいと、唐突におもった。
☆個人的余談 翌日は雪。三ケ島は5センチ積もりました。
薔薇の蕾に雪。 めったに見られない風景です。
薔薇の名前はイヴ・ピアッツァ 花開けば芍薬咲の優雅な姿でした。
私の朗読修業-その8
勤労感謝の日、「おとなのための朗読会」が開催された。塾生二名の朗読はいずれも約50分のボリュームのある内容、二人ともに長い長い時間をかけて向き合ってきた作品。大事に風呂敷に包んで胸に抱き、舞台の上でその結び目をゆっくりほどいて、耳を澄ます観客にそっと手渡していく・・・そんな感じのする、心にじんわりしみ込んでくる温かい朗読だった。それは作品が持つ質の良さと、読み手の努力と愛とが合わさって育まれたものと思う。(Kさん、Iさん、素敵でした。拍手!!)
そして、30回記念ということで登場された妙有先生の朗読は・・・絶品だった。 文字に書かれた樋口一葉「わかれ道」をさらっと読むと、明治の頃の少々馴染みにくい表現や言い回しに加え、え、ここで終わってしまうの?この先は?・・・と、何か突然取り残されたような気分になる幕切れに戸惑う(スミマセン。これは未熟者の私の場合です)が、先生のそれは、原文そのままの言葉が語られながら、聴き手にはまるで映像を見るかの如くその場面が見えてくる。幕切れは、その先に観客がしばらく佇むことを、その世界で引き続き物思いに耽ることを促すような、余韻に満ちていた。それを壊していいのか・・・拍手することが憚られる短い瞬間があり、そして、ほんの僅か表情を崩される先生の姿に呼応して、ため息とともに拍手が起こった。
司会のOさんが「・・・まだしばらくこの余韻に浸っていたい思いがしますが・・・」と、皆の気持ちを代弁するように優しく閉会の言葉を告げられ、会はお開きとなった。 聴きのがした方、残念でしたね。
今月の櫛部先生☆語録
(メモなので、行間は読む方が埋めてください)
・読み手は常に自由に根無し草のようにあること・・・。何にでもなれるように、且つ、物語の一本の筋は通していく。朗読の芯をつかむ。
・朗読の場合、やりやすいと感じたら用心すること。練って練って書かれた作品は、気持ちよく読める。でも、それをスラスラ読むのは、書き手にのせられているだけ。
・何をやってもダメ、難しいと感じたら、それは朗読のもっていき方、切り口が掴めていないから。アリ地獄に入り込んでしまったら他に目を向けてみる。いろんなものに触れ、いろんな事を考え・・・(心を耕してください)。
・他人(書き手)の言葉に合わせていくために、自分の呼吸でない呼吸をしなくてはならない、そこが難しい。呼吸が変わる、息遣いが変わる、身体ごと変わる。
・到達する先は、点ではなく、ある幅を持った場所、解はひとつではない、いくつかの解があって、そのどこかに辿り着けばよい。
・・・to be continued・・・ カメ子は冬眠中 🐢
私の朗読修業-その7 🐢
少し前をちょっと振り返って・・・Ⅱ(AYさんの思い出)
今年3月のおさらい会、すったもんだの挙句になんとか『秋』を読み終え、全身脱力状態ながら脳内はややハイテンション気味の私は、打ち上げ会場への道すがら、ほんの少しの間、AYさんと並んで歩いた。
妙有☆朗読塾のメンバーに共通していることは、櫛部妙有という朗読家に惚れ込んでいるという点、ある意味「違いのわかる男女」たちだ(ダバダ~♪)。名前程度のごく簡単な自己紹介でスタートした稽古初日、いつの間にかいつもの席が決まり通い始めて早三年、一方で先輩方がどんな方々なのか、経歴などは一切知らないまま、選ぶ作品と読む声と妙有先生のダメ出しに立ち向かう果敢な姿(?)でそれぞれの一面を垣間見、少しづつ理解していく・・・そんな場所がこの塾。(・・・と、あくまでもこれは私の個人的な感想。)
そして、最初の一年数か月、私事都合で所属教室を移動(転校)するまでご一緒させていただいたAYさんは、いつも背筋の伸びた凛としたたたずまいの学者さん風(実際本物の学者さんでした!)で、持ち込む作品はユニーク、語り口は飄々として何か年齢やジェンダーを超えた独特の雰囲気があって、この作品をこんな風に・・・と想定外の面白さに気づかせてもらった。夏目漱石の『夢十夜』、宮本百合子の『おもかげ』、R.ブラッドベリの『歓迎と別離』、それらを読むAYさんの声が今も耳に残る。そのAYさんが、夏の終わりの頃、遠いところへ旅立たれた。
あの日、坂道を下りながら、
「全くあの俊吉という男は、はっきりしない。(AYさん)」(注:『秋』は若い姉妹とその従兄の俊吉との三角関係のお話)
「はい、主人公の信子ではなく、俊吉側の一人称で描かれたスピンオフ版を読んでみたいです(私)。」
「ふ~む、それは面白い(AYさん)」
・・・滅多におしゃべりなどする機会がなかったAYさんとの他愛もない会話だが、この時の何だか愉快そうにしていらした面影が夕暮れの景色とともに記憶に刻み込まれた。おさらい会では平家物語から『木曽の最期』を読まれた。何かぼくとつとした語り口の中に、巴御前や今井四郎の凛々しい姿が目に浮かぶ、力強い朗読だった。
秋山さん、私も、背筋を伸ばして生きていきますね。 合掌。
・・・to be continued・・・ カメ子 🐢