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高野聖

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 久し振りに鏡花の『高野聖』を朗読する。2000年に松明堂音楽ホールで初めて人前に出して、それから構成の手直しをして2004年には都内の小さなス ペースと埼玉の古民家とで朗読して以来だから五年振りになる。
 魅力的な作品なのだが、なかなかどうして鏡花先生が込み入った書き方をしているので、私のような零細朗読家の朗読会用に仕立て直すにはすんなりとは行か ない。今回も、前三回とは少し違う構成になって時間的にもやや長くなった。と言っても二時間以内には収めたいと随分四苦八苦致しました。音楽も、前回まで は即興的な感じで尺八の演奏家に加わって頂いたのだが、今回はブリッジ音楽として新たに邦楽の作曲をお願いしました。さてどうなるかなぁ。
 『高野聖』と云うと、若い僧侶が飛騨の山中で恐ろしい目に遭う話で、蛇やら、蛭やら、気味の悪い生き物が出て来て、好色で妖しい女が通りがかった男達を 慰みの相手として弄んだあげくに、蟇や蝙蝠や馬に変えてしまう怪奇な話、のように思われているらしい。殊に「好色な妖しい女」が、溪の流れで若い僧の体を さする場面や、動こうとしない馬の前で月明かりに裸身を曝す場面ばかりが印象的に語られがちだが、鏡花が書きたかったのは、ただ単に妖しい美人と彼女をめ ぐる怪奇な世界だけだったのだろうか。私は違うと思う。
 そもそも彼女がどうして山奥の一軒家で言葉も体も不自由な若い男と暮らすようになったかと云う事を、現代風に言い変えてみよう。彼女の父親は医者で、そ の医療過誤によって障碍を負った少年をその実家へ送って行ったまま、十三年間介護し続けているのだ。それに、この作品は入れ子になっていて、外側の器にあ たる話では、東京から若狭へ帰省する「私」が列車の中で乗り合わせた坊さんから話を聴く設定になっているが、その坊さんはまるで偉そうには見えない人で あったのに、後で聴くと有名な大和尚だったと書いている。人を外見だけで判断してはならない、という主題の一つが既にここで示されている。それから、入れ 子の内側の話の登場人物である女性を「婦人」と書いて「おんな」と読ませ、彼女が若い僧に呼びかける時には「貴僧」と書いて「あなた」と読ませているの も、そこに何か鏡花の思いが感じられる。
 私にとってこの作品の最も印象的な場面は、深山(みやま)の孤家(ひとつや)で晩の御飯を済ませてから寝る前までの間を描いたところだ。外見は実に異様 な、両足が萎えて言葉も満足に話せないという、身体的にも知的にも障碍があるようで年齢よりも幼く見える若い男に対する婦人の優しさ。その男が歌った時 の、外見からは想像もつかないほどの声の美しさ。その優しさや美しさを真っすぐに受け止めて涙ぐむ若い僧侶。さらにその涙の意味を感じ取ってうなだれる婦 人。「私(わし)も首(かうべ)を低(た)れた、むかうでも差俯向く」という短い文章は、人の内面の美しさがことばを超えて通じた瞬間の沈黙を描いている。紫陽花の花の蒼さを一段と増すように照らす十三夜の月の光が、家の中にまで射し込んでいて、静けさに包まれた一刻に最も深い部分で互いに理解し合って いる婦人と若い僧侶。此処こそがこの作品の要なので、前後の怪奇も妖艶もこの一点を際立たせる為の大仕掛けな道具立てなのだ。だがその大仕掛けな道具立て の所々に、この一点へと繋がる言葉がちゃんと置いてある。
 ・克明で分別のありさうな顔をして、これが泊に着くと、帯広解で焼酎をちびりちびり遣りながら、旅籠屋の女のふとった膝へ脛を上げようといふ輩ぢや。  
 ・快からぬ人と思つたから、其まゝで見棄てるのが、故とするやうで気が責めてならなんだ。
 ・これは此の山の霊であらうと考へて、杖を棄てゝ膝を曲げ、じりじりする地に両手をついて、「誠に済みませぬがお通しなすつて下さりまし、成たけお晝寝 の邪魔になりませぬやうに密と通行いたしまする。御覧の通り杖も棄てました。」と染々と頼んで
 ・「貴僧、お傍に居て汗臭うはござんせぬかい、飛んだ暑がりなんでございますから、恁うやつて居りましても恁麼でございますよ。」といふ胸にある手を取 つたのを、慌てて放して棒のやうに立つた。「失礼、」
 ・「白桃の花だと思ひます。」弗と心付いて何の気もなしにいふと、顔が合うた。すると、然も嬉しさうに莞爾して、其時だけは初々しう、年紀も七ツ八ツ若 やぐばかり、処女の羞を含んで下を向いた。
 ・「何でございますか、私は胸に支へましたやうで些少も欲しくございませんから、又後程に頂きませう、」と婦人自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけて な、頃刻悄乎して居たつけ。
 私はこうした文章を手懸りにして考える。まず、外見が良くても行いの卑しい人間があるものだ、と提示される。
 それから若い僧の宗教者としての心がけ。蛇にまで一生懸命に頼み込む純真さ。女が誘おうとした時に自分の方から詫びる清潔さ。その後で、何の邪心もなく女 の美しさを誉める率直で素直な僧の心に、女の心の奥底から彼女が本来持っていた羞恥心が呼び覚まされる。その直前に接した薬売りを含めて、彼女がそれまで に相手にして来た男達とは全く異なる、若い僧の人間的な純粋さに触れて、彼女の心の裡には来し方の様々な事どもが去来しただろう。そうしてこの後に、私の 好きなあの場面が来るのだ。
 この場面ではまた、自分から望んで得た訳ではない神通力(今風に言えば超能力)を、使えてしまう者の孤独が、「寂しくつてなりません、恁麼山の中に引蘢 つてをりますと、ものをいふことも忘れましたやうで、心細いのでございますよ。」という言葉の中に滲んでいると思う。この夜、彼女は使おうと思えば使えた 如意自在の神通力を使わなかったのは何故だろう。それは、若い僧の心根の純真さに呼応して顕れた彼女の中の純真さの所為に違いない。夜中、家を取り巻いて 迫って来る魑魅魍魎から身を守ろうと、僧は一心に陀羅尼を唱えるが、それで救われたのは彼女の方かも知れない。彼女に神通力を使わせて戯れようと近寄って 来た魔が退けられたのだから。
 更に私は思いやる。翌日、僧は里へと駈け下りて山は大雨になったわけだが、その大雨の後、彼女はどうしたろう。神通力を保ち続け以前と変わらぬ暮しに 戻ったのだろうか。それとも……、想い惑っていた僧を我に返させた雷鳴は、彼女が我身を滅ぼす為に呼び寄せた雷神ではなかったろうか。雷雨の中で微塵に 散って白桃の花びらと化してしまったのではないだろうか。そうして少年と二人、もはや人間ではなく異界のものとして人間が訪れることのない深山に棲むよう になったのではないだろうか。鏡花の作品の中で、純な心を守り通すものは往々にして異界の者達であり、人間であれば狂うか命を落とすしかなくなっていくも ののようだから。

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