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朗読と新内

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 台東区竜泉で『朗読と新内のコラボレーション』を聴いた。
 竜泉と言えばつまり樋口一葉記念館で、「十三夜」の冒頭部分の朗読と新内「蘭蝶」のごく一部がまず語られて、休憩の後が一葉の手紙を朗読と新内で構成し たコラボレーションでした。
 最初に、流しの連れ弾きというスタイルで入場して来たのも良かったし、手拭いの扱いや、歩きながら弾く三味線をどうやって固定しているかの説明も面白 かった。何より間近で新内を聴けたのが嬉しかった。
 ついこの間、シェイクスピアを聴きながらエリザベス朝の音楽との関わりを考えたけれど、新内も、あの上調子の三味線のかろやかに転がる高音と、浄瑠璃と してはトンデモナイほどの高音の語りが切離せないのだなぁと思う。新内の魅力は、高音の語りが発する何とも言えない「切なさ」なのではないかしら。(語り 手の頭の血管が切れちまうんじゃないかって心配になるけど。)新内が出来たのは、上調子の高い調弦が先だったのか語りの高音が先だったのか分らないけれ ど、ともかく両々相俟っての魅力で今に伝わっているのはよく分ります。
 さて、昨今流行のコラボレーションでありますが……。表現の場では、コラボと云うと異種共働、協力を指しているようで、朗読は表現としては手軽に受け止 められているせいか、いわゆるコラボに引っ張り出され易い。(のか、或いは朗読者側が朗読だけでお客さまを楽しませるのに不安があるのか、ナ。)
 だがしかし、私は一人の朗読家として慎重に考えたいのです。考えようによれば、新内はそれ自体が、音域と奏法の違う三味線と唄語りによるコラボレーショ ン。人形浄瑠璃も歌舞伎も能も、バレエもミュージカルもオペラも総合芸術と称されるものは、長い時間をかけて調和がはかられたコラボレーションと考えても 良いのではないかしら。
 そこで大切になるのは、お客様が楽しめるような「全体のまとまりが有る」ということでしょう。コラボにはアンサンブルのセンスが欠かせないのです。自分 が何を演っているか分っていると同時に、コラボの相手が何を演っているのか、演ろうとしているのか感じ取れないとお客様に楽しんで頂けるものにはならない と思う。
 芸術表現には何でも有りだという狂騒の時代を通り抜け、ヘタウマやミスマッチがもて囃されて、現れ出たるコラボ殿は、一つ間違えると本当に下手な座興に なってしまうアブナイ匂いが致します。などと考えている折も折、ラジオで上方の噺家さんがこんなことを言ってました。 「コラボは100と100を合わせても200にならない。合わせても100に届かない事がある。だから、自分の芸に自信が持てなければ出来ない。」むべな るかな、ですね。

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