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鳥の歌

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 「雛」を朗読し始めた最初の頃は、作品の最後に近いところで老女が失った雛道具を次々と数え上げながら気持ちを ( たか ) ぶらせてゆく場面を、声でどう演技するかに興味があった。芥川は、育った家庭が代々江戸城の 御奥坊主 ( おおくぼうず ) だし、育ての母の伯父は、 山城 ( やましろ ) 河岸 ( がし ) 津籐 ( つとう ) という 大通 ( だいつう ) だったから、物語の核になる雛にまつわるエピソードは身近にあったのだろうと見当はつけたけれど、それ以上には追求しなかった。朗読する際に「兄」の扱い方に戸惑う感じはあったものの、英語の勉強に熱心で、ちょっと皮肉屋に描かれているのが、何となく芥川自身を連想させるので、あまり深くも考えなかった。
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 だが先日、ふと本文のなかの「火事には三度も ( ) いますし」という 言詞 ( ことば ) が気になって、明治の初めの頃の火事を“消防防災博物館”で検索してみた。すると、明治五年に丸の内、銀座、築地一帯が消失する大火事があったことが分つた。さらに明治十二年十二月、日本橋、京橋、八丁堀、新富、入船、佃の一部にまで及ぶ大火。十三年十二月、再び日本橋大火、神田、日本橋一帯を消失。十四年一月、東神田、日本橋馬喰町、横山町、本所、深川の一部まで消失する大火。二月に再び神田、日本橋の大火・・・・・・と、明治新政府の首都東京の中心部は ( ほとん ) ど焼野原だったのではないかと思われるほど、立て続けに大火事の記録がある。
 明治五年の銀座大火の火元は和田倉門内にあった旧会津藩 藩邸 ( はんてい ) だった。この大火事で耐火建築の重要性を認識した明治政府は、銀座通り沿いに 煉瓦造 ( れんがづく ) りの建物を建築し「煉瓦通り」と呼ばれた。だが、 漆喰 ( しっくい ) で固めて半分は木造のような煉瓦造りだった家並みは、関東大震災で跡形もなくなったという。
 これを知った時、何かがすうっと開けた。本文に書かれている“人力車で 会津 ( あいづ ) ( ぱら ) から煉瓦通りへ”という 言詞 ( ことば ) は、ただ近所を人力車でぐるっと ( まわ ) ってくるという意味では無かったのだ。私はずっと、ただその辺を散歩して来る程度にしか思っていなかった。
 芥川は、雛人形を外国人に売ったことの 顛末 ( てんまつ ) に絡め、幕末から維新を経て激変した社会に翻弄される或る家族の姿を描き、それを通して明治の世相を切り取って見せようとしたのだ。
 作品の最後に「 雛」の話を書きかけたのは何年か前のことである。」とあるが、全集にその「雛」の草稿が所載されている。冒頭は作家の家庭を思わせるような描写で、夫が妻に昔のことを話して聞かせる形で「銀座通りに鉄道馬車もなかった時分」の話に入って行く。銀座通りに鉄道馬車が開通するのは明治十五年六月だから、この話は明治十三年の十一月か明治十四年の十一月にあったことなのだろう。そして「雛」の本文では、もと 肴屋 ( さかなや ) で人力車夫になった 徳藏 ( とくぞう ) が「お嬢さんを人力車にお乗せ申して、会津っ原から煉瓦通りへでもお伴をさせていただきたい」と言う。会津藩は御三家に準ずる“ 親藩 ( しんぱん ) ”だったから、江戸にも上屋敷・中屋敷・下屋敷と三ヶ所に邸を構え、和田倉門内に在ったのは江戸城に最も近く謂わば本宅に当たる上屋敷。そして周知の通り、戊辰戦争では幕府側として新政府軍に徹底抗戦した。その会津藩藩邸と周辺の焼跡は、そのまま十年近く放置されていたという事だろうか。銀座通りが拡幅され、煉瓦通りの体裁が整えられたのが火事の翌年だった事と比べると、何か恣意的なものさえ感じられる。
 「雛(草稿)」では、総桐の三十余りの箱、火事に焼け残った土蔵にさしかけた店、母親が 面疔 ( めんちょう ) ( わずら ) っている事などは同じだが、 御金御用 ( おかねごよう ) をしていたのは「 津国屋 ( つのくにや ) 」で「娘達」の雛を売る事になっている。
 1995 年版全集第二十一巻「雛(草稿)」の後ろには、原型になったものとして『「明治」(紺珠十篇の中)』も所収してある。
 銀座通りから遠くない所で 正徳丸 ( しょうとくがん ) の金看板。母は面疔で寝ている。御金御用をつとめていた津国屋が今では売薬を渡世にしている。維新以来二度も火事にあった。道具屋をつてに姉妹の雛道具を三十円で横浜の異人に渡す。手付け金で父親はランプを買いに行った。出入りの肴屋が人力車夫になった。妹娘はその人力車に乗って 下谷 ( したや ) 黒門町の親戚の店を訪ねる。黒門町の店では、 新参 ( しんざん ) の小僧が 舶来 ( はくらい ) の時計のせいで気違いになってしまった。母親は「新しいものはいやだねえ、時計だの汽車だのって・・・・・・」と言う。父親が夜中に雛人形を箱から取出して眺めていた。などと、ほぼ「雛」と同じ事が書かれていて、「その時の妹が、今年六十◯の春をむかへた自分の母がそれである。」と締めくくられている。
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 “ 紺珠 ( こんじゅ ) ”とは講談社の新大字典に、——コンジュ又は、カンジュ。唐の張説が人から贈られた記憶を呼び起こすという紺色の ( たま ) 。転じてすぐれた記憶力のたとえ。<開元天寶遺事>——とある。
 芥川は「紺珠十篇」の表題のもとで、第四次新思潮に小品を連作するつもりだったようで、(一)「孤独地獄」(二)「父」までは ( ) っきりしているが、後はよくわからない。「明治」を新思潮に出したかどうかも分からないけれど、完結した小品に仕上げてある。「孤独地獄」は“母から聞いた話”であり、「父」は“早世した友人にまつわる忘れ難い話”で、共に実際にあった事をもとに書かれている。“紺珠”の意味から見ても、「明治」に書かれている事がほぼ実際に有った事だと推測できる。
 (余談だが、森鴎外の取材ノートに「 小紺珠 ( しょうこんじゅ ) 」と名づけたものがある。)
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 では、「明治」「雛(草稿)」から「雛」へと作品が熟成していく時に、大きく変化したものは何だったのだろうか。個人的な身辺の思い出話にとどまっていたものを、社会性を帯びた普遍的な作品へと変容させた芥川の創作意図だ。題名は「雛」になったが、描かれているのは「明治」の世相だ。
 “津国屋”では山城河岸の津籐そのもので、全く身内の事になってしまうから“紀の国屋”に変えたと考えられる。実際には、芥川の育ての母は津国屋の姪で、その父伊三郎が御金御用、或いは 札差 ( ふださし ) をしていたかどうかは分からないが、既に或る程度の文学的な変容を施してはいたわけだ。それを、もう一つ客観視できるようにしたかったのだろう。津籐は、今の紀ノ国屋文左衛門、“ 今紀文 ( いまきぶん ) ”とも呼ばれていたからそういう連想で“紀の国屋”にしたのかもしれない。
 姉妹だったのを兄妹にしたのは、物語の家族構成によって“明治の世相”を表現するために必要だったに違いない。 ( ふる ) い物を否定し、新しい物を積極的に受け入れようと熱心に英語を勉強する、当時の典型的な人物の一例として兄を設定した。そして「永年政治に 奔走 ( ほんそう ) して」という本文は、この人物が自由民権運動に身を投じたことを想像させる。さらに「 癲狂院 ( てんきょういん ) へ送られる」という本文は何という皮肉な設定だろうか。新しい知識、新しい事物、西洋の受容に熱心だった人物が、西洋の精神医学に依拠して新たに設立された精神病院に収容されるのだから。これは、和魂洋才などと言いながら、西洋の 上辺 ( うわべ ) の形だけを取り込んでいく社会の行き着く先はどうなるのかという、芥川が漱石から受け継いだ問いの変奏にも見える。芥川はこの兄なる人物にはもう一つ皮肉な事をさせている。母親の面疔を治療する為に、兄が「毎日十五銭ずつ ( ひる ) を買いに」行くのだ。先進的な兄が原始的な民間療法を頼りにする矛盾。それは明治の社会そのものが抱えていた矛盾でもあるだろう。
 妹娘が人力車で出掛けて行った先は黒門町の親戚の店だったのを、「会津っ原から煉瓦通りへの江戸見物」にしたというのが、最も大きな変化で芥川の意図が明確に示されている部分だと思う。瓦解した旧体制から、外形だけ西洋を真似て 急拵 ( きゅうごしら ) えした新体制へということを象徴しており、身内の思い出話から普遍性を持つ作品へと変化した鍵でもある。徳蔵に「江戸見物」と言わせているのも興味深い。庶民にとって、これまで暮らしていた「お江戸」を突然「東京」と呼び変えられても、簡単には馴染めなかっただろう。
 一方、「明治」「雛(草稿)」「雛」の中で変化させなかった事は何か。それは「雛道具一式を外国人に売った」という事だ。
 「雛(草稿)」に、「これは細君が幼い時にかしづいた雛を祭ったのである。」という表現がある。現在では“お雛さまを飾る”としか言わないけれども、飾り付ける行為のうちには“お雛様のお世話をする”感覚が有るように思う。そして桃の花や貝やお菓子を添えて楽しむ雛祭りには、“お供えをしてお ( まつ ) りする”意識が深層に流れている。雛人形が 玩具 ( おもちゃ ) ではなく、女児の健やかな成長と人生の仕合わせを願い、祈りを込めて親が用意するものという共通認識があるからだ。
 しかしそれは、そうした文化的背景を持たない人々には理解されない。「雛」の最後に「古雛の首を玩具にしている紅毛の童女に遇った」と芥川は書いている。これが事実かどうかは分からないが、この最後の文章で、芥川は歴史や文化の背景が理解されなければ不当な扱いを受ける事を端的に伝えている。
 経済的に追い詰められた一家にとって、同じ“売る”のであっても共通の価値観を持っている人に売るのであれば、受け止め方も又少し違っただろう。他所へ行っても其処で ( かしづ ) かれ、大事に伝えられて行くであろうという安心感と共に引き渡せる。しかし明治時代に外国人に渡すとなれば、その後はどうなるのかと不安な思いの方が強かったのではないか。
 にも拘わらず外国人に売らねばならなかったのは、当時まとまった金額を支払えるのは御雇外国人のような人逹しかいなかった事が考えられる。社会制度の急変と度重なる大火で重い経済的負担を抱えていたのは、この一家だけでは無かった筈だ。総桐の箱三十にも収められた贅沢な雛道具を買い取るだけの経済力を持った人物は、容易に見当たらなかったのだろう。
 そして“雛人形を異人に売り渡す”という事が、一家に靄のような目に見えない緊張感をもたらす。わずか半月ほどのその日々が「雛」の物語として展開される。
 手付け金を受取って売買が成立した時、最も悲しみ深く受け止めたのは母親だ。「伏し眼になった睫毛の裏に涙を一ぱいためて」いる。この母親は、旧い時代や価値観を現し、兄と対立する役割を与えられている。母親は程なく面疔を患うのだが、悲しみの深さが病を引き起こしたかとさえ思われる。
 “雛を売り渡す”ことにそれほど抵抗が無いように見えていた娘も、やがて雛への断ち難い愛着を自覚する。娘は少し幼げに描かれていて、世の中が移り変わり家族が皆亡くなってしまった後に、出来事を物語る役割を担う。
 雛道具など「実用にならない物は取って置いても仕方がない」と、積極的に売ろうとしているかに見えた兄が「見りゃあみんなに未練がでる」という 台詞 ( せりふ ) で心の裡を一瞬見せる。此処が、母親と ( いさか ) いをした時に突然泣く場面と関連する。彼は彼なりに零落した一家を立て直したい思いがあり、その為には英語が必須であり、新しい物事を積極的に受け入れなければと考えているのが母親には全く理解されない。それどころか母親から「お前はわたしが憎いのだろう」と ( なじ ) られる、その ( ) ( ) 無さ。
 転変する時代の波に翻弄され、娘の雛を手放さなくてはならなくなった事態に、誰よりも無念な思いを嚙み締めていたのは父親に他ならない。売る前に一目だけ雛を見ておきたいという娘の願いを頑として ( ) ね付けていた父親が、明日は売り渡すという前夜に、家族が寝静まってから雛を取り出してじっと眺めている。娘はそれを夢うつつに目にし、生涯忘れ難い思いをする。「明治」では「父が ・・・略・・・何時までも飽かずに ぢつと眺めてゐるのを見た。妹は その時心に 二度とお雛様を見たいなどとは 云ふまいと誓ったのである。」となっている。そこからは、娘が子供ながらに父を ( かば ) わなければいけないような複雑な感情を抱いたのだと推し量ることが出来る。
 その複雑な思いは娘の心に深く刻まれて、その時の情景と感情とは終生忘れられないものとなる。物語るうちに、娘の頃のその複雑な思いを再び思い起こす老女の感懐、「夢かと思ふと申すのは」という言詞を二度も繰り返して心の昂ぶりを示す心理表現は、演技する者にとって矢張り魅惑的な ( くだ ) りだと思う。

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