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父と暮らせば

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 久し振りに芝居を観た。正確には、聴いた。井上ひさし作「父と暮らせば」 父を西本裕行さん、娘を吉田直子さん。
 井上ひさしさんは、やはり凄い人だなぁと思う。東北生まれの井上さんが、広島弁を駆使して被爆がもたらした生と死を描く、台詞によってあぶり出す。
 八月になると、「語り継ぐ戦争体験」なる催しが急に多くなる。朗読教室でも、そのようなテキストをお持ちになる方がいらっしゃる。だがしかし……。
 生徒さんがこれまでにお持ちになった、戦争に関わる幾つかの文章や文学作品と向き合いながら考え込む。個の体験を記録し、語り継ぐ事が大切なのはよく解 る。それは充分承知した上で、しかし、戦さの酷〔むご〕さと虚しさを綴るにはそれに見合う文章力が必要だと思わざるを得ない。
 個の体験が現す悲痛は重い が、出来事の全体を俯瞰する事が出来ない。個々の証言をもとにして、起ってしまった事の全体を見通し、取捨選択して出来事の本質を顕すには専門家の力が必 要なのだ。そしてその出来事によって数多くの死者があったとすればなおのこと、語り継ぐべき物語に鎮魂の祈りをこめる為には、ことばを業とする者の能力が 要る。「父と暮らせば」の台詞を耳にしながら改めてそう思う。
 山形生まれの井上さんが、広島で起った悲劇を、標準語ではなく広島弁で書いたのは何故だろう。「國語元年」を書いた井上さんであり、御自身が山形の「お くにことば」を持っているからこそ、標準語で表すことの限界を知っていらっしゃるのだろうか。
 生まれ在所のおくにことばを持つ人にとって、標準語はよそよそしく感じられるらしい。(東京の世田谷などという所で生まれ育ってしまった私は、悲しい事 に、この国の圧倒的多数の人達がよそよそしく感じることばを生まれ在所のことばとするしかないのだが。)正真正銘未曾有の出来事を語るのに、標準語を用い たのではどうしてもよそよそしい他人事〔ひとごと〕になりかねない。
 ただでさえ、直接経験した人々にしてみたら、全く経験の無い人間が書いた被爆者の話などそらぞらしい偽物としか思えないだろう。より多くの人々に、何事 が起ったのかを知って貰いたいのは勿論のこと、実際に経験した人達にも共感を得られなければ、書く意味が無い。まして、戯曲のことばは音声化されるのが前 提になっている。あれがもし標準語で音声化されたなら、広島の人々の共感を得られないどころか「あんなきれいごとではない」という反発を買うのではないだ ろうか。
 この小さな舞台は、秋にはブルガリアへ持って行って上演されるのだという。私はこの戯曲が、世界中で上演されるように希う。日本語の、一地方でしか使わ れない言語で書かれていながら、書き表わされている内容には、酷い出来事とそこで生残ってしまった者が抱える深い哀しみ、心の傷と、再生への祈りという普 遍性があるから。そしてそこには告発も復讐も含まれていないから。
 でも、翻訳となると標準語で書かれている方が翻訳し易いでしょうね。井上さん、標準語版も書いて下さらないかなぁ。日本語を母語としない日本語の使い手 の為にも百年後の日本人の為にも、ね。

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