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ひとこと

kumo80

2017年6月3日

 私の朗読修業ーその10 🐢

 市立図書館の視聴覚室で開催された「小函の会」の温習(おさらい)会は、『妙有☆朗読塾・番外編公開講座』とでも名付けたくなるような充実の時間だった。

 個性の異なる8名の出演者が、其々の好みで選んで稽古を重ねてきた作品を壇上で披露する。それだけならよくある?朗読会、でも「小函の会」はちょっと違う。その作品の、その読み手の裏側を、櫛部先生(小函の会)が目指す朗読というものを、辛口のダメ出しまで添えて先生は惜しげもなく披露された。そして、重松清から樋口一葉まで、何の脈絡もないように見える個々の作品の朗読が、2時間半が終わってみればひとつの大きな流れの中で、ある調和をもって幕を閉じた感じがした(のは私だけだろうか?)。予定時刻を少々オーバーして、16時45分に図書館のチャイムが響き「間もなく閉館」のアナウンスが流れた時、先生の閉会の言葉を受けて、ほぉ~っとため息が漏れた。耳を傾けるこちら側も一心に集中していたことに気づき、それが解けた心地よい疲労感に襲われた。

 あの日、誰よりもエネルギーを消費したのは妙有先生に他ならない。全員の朗読を舞台袖でじっと集中して聴き、その余韻の中で生のコメントを飾らない率直な言葉でよどみなく表現される。一人目、二人目・・・と続くうちに、作品だけでなく先生の話にどんどん惹きこまれていった。その解説がなかったら気づけなかった作品の豊かさ、読み手の可能性にも思いを馳せることが出来た。あの日の陰の主役は、もしや・・・。

 能の世界では師匠は弟子を決して褒めることはないという。芸の道には完成がないから、師もまた高みを目指す途上にあるからだと。

 妙有☆朗読塾の塾生であることを誇りに思う午後だった。
 (出演者の皆さん、お疲れさまでした。どれもみな味わい深い朗読でした♡)

 ・・・to be continued・・・

 カメ子はひよっ子・でも気づけば4年生(うひゃっ!?) 🐢

2017年6月1日

 西武分館にて「おさらい会」無事終了。櫛部先生はじめ出演者の皆様、裏方の皆様、お疲れさまです。
 各出演者の朗読の後に入った先生の解説(作者、朗読者についての)にも聴きごたえがありました。 “楷書の読み” 出演者Nさんの朗読をこの言葉で表現された。
 朗読っていいなぁ、、と、思う。
 「小函の会」の朗読は、同じ作品でも読む人によって違った味わいをもって伝わってくる。これまで、朗読会やお稽古で聴かせてもらった『たけくらべ』 『雛』 『よこまち余話』 『みちづれ』 『マヤ』 etc 語る人によって、景色や登場人物の服装までが違ってみえる。

 朝日新聞に連載中、石牟礼道子さんの『魂の秘境から』のなかに、 “焼酎をだいぶ聞こし召した父が、” という文章があった。“聞こし召した”これまでの私の日常生活では聞くことのなかった うつくしい日本語。家人に「お酒聞こし召されてますよ、、」とか注意するときにも使ってよいのだろうか??

 櫛部先生☆語録
 「書かれている文字を言葉にしていく。書かれている文字をどのように言ったら言葉として聴いている人に届くのか。
 人が言葉というものを、どんなふうに使いわけているか、日常の中でどんな話し方をして人と話を通じさせようとしているか。それを朗読というところへ整理したかたちでもってくる。」

         カラスノエンドウ
PS 余談ですが、庭のベビーバス池?に睡蓮が咲きました。

             

2017年5月23日

私の朗読修業-その9 🐢

 昨年暮れから「袈裟と盛遠」に取り組んでいる。芥川龍之介26歳の作品。歴史上実在の人物を芥川独自の人物考察を加えてドラマチックに書き上げられた男女の愛憎劇。上(盛遠の独白)下(袈裟の独白)で構成された二幕ものの戯曲といった体裁だが、どちらもモノローグなので二人が対話することはない。二人の魂は其々に孤独に彷徨う。綿々と書き綴られた台詞の行間に潜む書かれていない思いを探り続けている。
 妙有先生から「この作品は間(ま)が重要。黙り込むことを恐れないで。」と最初の段階でダメ出しされた。自問自答しながら心の内が赤裸々に吐露されるが、饒舌にすべて語りつくしているようでいてやはり文字で現されない心の動きがわんさとある。読み手はそこを蔑ろに出来ない。
 朗読と一人芝居の境が曖昧になってくる。そもそも朗読の型を知らない私は、どの作品に取組むときもいつも初心者、拠り所のない不安を抱えたままゴールの見えないスタートラインに立つ。先生は、朗読にはいくつもの表現方法がある、と言われる。作家ごとに作品ごとにそれを探っていけばよいと。作家がその言葉を選んだ時、どんな風に口ずさんだのだろう、どんな音が聞こえていたのだろう、どんな景色が見えていたのだろう。そして筆をおいた時、果たしてどの程度満足していたのだろうか。
 アドバイスに従い先に後半の袈裟の独白から始めて四か月、ようやく盛遠へ。「愛って何?」と深みにはまりつつある今日この頃。

~妙有先生☆語録(5月の稽古場から)~
 沈黙の方が言葉よりより大きく何事かを伝える力を持つ(ことがある)・・・沈黙の中から次の言葉が浮かび上がってくる、人物の心の動きを捉えようとする時、読み手は沈黙にどれだけ耐えられるか・・・

・・・ to be continued ・・・

 オトメ ♡ カメ子 🐢
 『The rest is silence.』

2017年4月27日

カメ子のちょこっと寄り道 11 🐢 

行きつ戻りつしながら春が駈け足で過ぎていく。

 今年は全国に先駆けて東京で桜の開花宣言があったけれど、あれはたまたま靖国神社の蕾が一輪開いちゃったからで、底冷えのするあの日はやはり時期尚早感は否めず、実際都内のそこここの桜が次々に開花するまでにはもう少し時間が必要だった。でも実はあの日、カメ子の住処を見守る桜樹も一輪だけ花弁を開き、それを見届けるかのごとくその日だけ冬眠から目覚めた彼女は虚空を見上げていたのだった(厶ム、もしや桜の精霊?!)。三寒四温の日々が続く間はまた池の中に姿を隠し、そして気温がほぼ安定し満開を迎えた頃、ジャ~ン、完全復活した。桜吹雪の下で空を見上げる目線の先には樹齢100年を超えそうな老木が・・・二者(ふたり)は交信している、としか思えなかった。
 そして今年も巣鴨の染井霊園へ満開の夜桜見物に。人影まばらな夕暮れ時、数匹の猫たちが出迎えてくれた。お隣の慈眼寺に足を延ばし芥川龍之介のお墓で合掌、すっかり日が暮れた空にはまんまるのおぼろ月、最後に出会った子猫がミャアミャアと微かな鳴き声をたてて霊苑の出口まで見送ってくれた。何だか出来すぎの宵・・・私にどうしろって言うの~と見えない誰かに問いかけながら帰路についた。桜が散り急いでいるように思えるのは、私がスローになったせい?

  


 昨年6月に初めて演奏会に足を運んで以来、その演奏に惹かれ時々阿佐ヶ谷や日本橋のライブを聴いている琵琶の塩高さん、今月20日の日本橋富沢町の会は知る限りこれまでで一番のステージ。中でも尺八と琵琶のための作品「まろばし」は吉岡龍見さんとの息のあった演奏に加え、特別ゲスト能楽師の津村禮次郎氏の舞が披露され、緊張感みなぎる息をのむ濃密な時間だった。打合せなしの本番一発勝負だったとか、個性の異なるお三方の其々の芸が決してお互いを邪魔することなく繊細に呼応しあって渋く光る迫力満点の時間だった。押しつけがましさはないのに心が揺さぶられ、その何かを受けとめるに値する靭さを持ちたいと思った。あんな瞬間に立ち会えて本当に幸運。感謝。

~櫛部先生☆語録(4月の稽古場から)~
 稽古では上手に読むことを目指さない。言葉をかみしめる、言葉が導き出すイメージを探っていくのが稽古。アナウンサーがニュースを読むように滑舌よく読むことを目指すのではなく、例えば何度も黙読して全体を繰り返しイメージして、あるいはその作家の他の作品からその傾向や表現の在り方の引き出しを増やして(作品に向き合っていくのが稽古)。常に全体に目配りをして、全体の中でこの一言はどういう位置にあるかを正しく解釈して伝える。
”朗読”は”解釈”なのです。


・・・to be continued・・・

カメ子 リボーン! 🐢


2017年4月6日

カメ子のちょこっと寄り道 10 🐢

 少し前に、シネスイッチ銀座で『ヨーヨー・マと旅するシルクロード(原題:The Music of Strangers)』を観た。
 ここ数年に見た映画のうちベスト5に入るくらい魅了された。
 そのうち感想を、と思っていたら銀座は明日7(金)まで、渋谷のル・シネマも来週14(金)までらしい。
 もしお時間ある方、騙されたと思って是非ご覧ください。情報提供まで。
 →http://yoyomasilkroad.com/
 興奮冷めやらず、カメ子も踊る ♪♪

2017年3月27日

櫛部先生☆語録 3月3日の稽古より
 私達は、まずイメージや言いたい事、伝えたい事が先にあってから言葉が出てくる。
 朗読で、人の書いた文章であるけれど、文字を見て声にしてからイメージが湧くのではなく、まず、書かれている事を自分のイメージにして、それが声になって行く。
その声のなかに、様々なイメージがふくむ、思い、温度など、それらが声のなかに入って、それが“ここに書かれた言葉”という事になっていく。そうでないと、言葉を口にしていることになって行かない。
 “ことば”は本来、音だった。 声だった。文字の言葉を本来の言葉の姿にもどす。

 意味に頼らない、意味以上であり、意味意外の何かを、声の言葉でつたえる。
 「言葉に核があるとして、そのまわりに気体のような、エーテルのようなものがある。
 この気体の部分が一番大事なのです」※これは櫛部先生の朗読の先生佐久間氏の言葉なのだそうです。

 3月9日
 いい声でなくて、実のこもった声。
 自分の内面を語って行くときに使うような声、その人の自然な地の声で語られた時に、その話が聴く人にとってリアリティを持って聴くことができる。

 金曜日のお稽古仲間Tさんが読んでいる 木内昇(みのり)の『よこまち余話』が面白いので本を買ってしまった。
 ついでに同じ作者の『茗荷谷の猫』も読んでみる。こちらは短編集で、家事を放り出して一気に読んでしまった。
 小川の金曜クラス「苑」は皆のテキストがジャンル様々で楽しい。

 飼い猫二匹に毎朝起こされる。
 枕元で「早く起きてね、お腹へってます。」それがしばらくすると「何時だとおもってる??ごはん・ごはん・ごはん!!おきろ!!」と激しい口調?になる。そのように確かに聞こえる。
 次元低くて恐縮ですが、これも声のコトバの原点でしょうか、、。

     カラスノエンドウ

2017年3月10日

カメ子のお便り 🐢

 カラスノエンドウさま
 はじめまして、池の中のカメ子です。
 ただ今冬眠中、生物学的には仮死状態ですが、魂はいつでも自由に好きなところへ飛んでいきます。もちろん、めんどうなときは好きなだけ眠ることもできます。
 カメ子は幼い頃、教会の日曜学校で英語の讃美歌を歌うのが大好きでした。意味などわからないまま、呪文のように何度も何度も繰り返し歌い続けました。
 英語の授業にはあまり興味はなくて池に戻って眠っていることが多かったのですが・・・、お姉さんが弟を思って詠んだ歌は、こんな風な鼻歌にしてみました。

Here am I, at this side of the world
And there are you, at the other

From tomorrow on, my dear brother,
Mt.Futakami would be you, forever

 でたらめちゃらんぽらん英語、ご容赦くだされ~
 See you ××

 桜が咲くまで冬眠(予定)の カメ子 🐢

2017年3月3日

 作家林京子さんが亡くなった。
 長崎の爆心地近くで被爆したのは15歳、長崎高等女学校の生徒であったという。
 その30年後、林さんが自らの体験をもとに書かれた「空罐」をテキストとして稽古し始めたのは、櫛部先生の朗読塾に入門して二年が過ぎた頃だったと思う。
 「空罐」は母校校舎を見上げるシーンから始まる。戦後30年が過ぎ、廃校になる母校を長崎に訪ねた5人の同級生それぞれが、当時を思いながら、それぞれの事情をかかえている現在までの姿が描いている。
 この作品は朗読の先輩Oさんが「おとなのための朗読会」で語られたことがある。
 場内がしんと静まって、聴いている方々の糸をひくような緊張がOさんの声に向かっていたのを覚えている。
 その後、同じ作品をテキストに選んでしまったのだった。(あの頃から私は無謀。)
 強く覚えている先生の、駄目だしの一つは、原爆投下直後、主人公達の状況の表現だった。
 「書かれている事、それ自体が十分凄惨なのだから、声にする時は淡々と、、」であった。
 最後になってから読む人に明かされる「空罐」という題名の由来となった “きぬ子”という同級生のエピソードが今も深く心に残っている。

 昨年から予約して、楽しみにしていた折口信夫「死者の書」の 英訳「The Book of the Dead」が届く。日本語の詩集も最近出版された、ジェフリー・アングルスが長い年月を費やして翻訳した。
で、、、本を開いて、気がついたのだが、私の英語力は高校受験レベルで止まっている。シマッタ。

 こんな英訳がありました。
 大伯皇女が、謀反の疑いで処刑された弟、大津皇子を思って詠んだ歌です。
 「うつそみの人なる我や 明日よりは 二上山を愛兄弟と思はむ」
 「Iam one of this world
 But from tomorrow onward
 I will be thinking
 Of Mt. Futakami
 As my brother」

 英語力皆無の私には、、そのまんまの訳におもえるのですが、きっと英単語一つ一つにも深い意味があるのでしょうね。英語に堪能な方々、どうか無謀な私をお救いください。

           カラスエンドウ

2017年2月17日

カメ子のちょこっと寄り道9 🐢

 練馬区内の古民家、けやきの森の『季楽堂(きらくどう)』で開催された尺八と琵琶の演奏会【Eclipse Live Vol.1】を、裏方のお手伝いをしつつ、襖の陰やら廊下の隅やらでこそっと視聴。客席からではなかったので繊細な部分は捉えきれなかったが、琵琶や尺八の音が音階を超えた流れの中で紡がれていく感じ、そしてそれがはっきりとピリオドを打つ瞬間の緊張感と演奏者がスイッチをオフにした後の会場の空気の解けた雰囲気は、じんわりと伝わってきた。

 『季楽堂』は、魂が集う場所という気がする。すぐ近くにはスーパーもあればイタリアンレストランもある住宅街の一角に、お稲荷様に護られるようにひっそりと佇む建物が「ようこそ」と私たちを迎えてくれる。目には見えないけれどそこここに何かがいる感じ・・・(ゾクゾク)、しっとりとした風合いの土壁に尺八や琵琶の音色がよく似合う。 休憩後、第二部が始まって間もなく、ふと窓の外に目をやると猫が一匹のそりのそりと近づいて来た。こちらに向かってかしこまった様子でちょこなんと座り、目が合う。どことなくすました表情に変わり「遅れて御免なさい、お待たせ」とでもいうように尺八と琵琶の演奏を・・・間違いなく聴いていた、まるで主賓のような佇まいで。

 終演後、座卓を囲み座布団敷きで寛いだ感じの懇親会の席上、ほろ酔い加減の吉岡龍見さんが渋~い尺八の音色をきかせてくれた。その時のそのままの命が息にのりそれが音となって響く。私には十分に魅力的に聞こえたが「アルコールのせいで~~(グチグチ)」と演奏に納得がいかなかったご様子、悔しがる顔が少年のようで可愛かった。
 
  ユニット名の由来を知って、武満徹や鶴田錦史に興味を持ち、佐宮圭のノンフィクション『さわり』を読んだ。以下は、その中から印象的な一文をご紹介。 ~一音の響きによって意図的に紡がれる邦楽の「無音の沈黙」はその一音に拮抗するほど無数の”音”がひしめく「間」として認識される。~ 又、著者が引用している作曲家武満徹の言葉にも心打たれる。 ~沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい~

 常日頃、妙有先生は朗読における「間」の大切さを繰り返し説いて聞かせてくださる。そして見事に実践されるそれが、邦楽における、琵琶や尺八のそれと共通していることに気づかされる。「間」を生きるには、人格品格経験等々その人が問われる。何度いわれてもその都度響く定番ダメ出し「心を耕してください」・・・先生の前ではいつも幼子に戻ってしまう。
ところでシェイクスピアは『ハムレット』で、ガートルードにこんな台詞を言わせている。

~Be thou assured, if words be made of breath,
And breath of life, I have no life to breathe
What thou hast said to me.
(安心しておくれ、言葉が息から、息が命から生まれるものなら、私にはお前の言葉を漏らす息も命もない)
簡単に言えば「命を懸けて秘密は守る」ということなのだが、こんな風に詩的表現をするのがシェイクスピア。文章全体が意味する内容とは別に、前半部分の普遍性にドキッとさせられる。 words(言葉)をsounds(音)に置き換えれば、文学(演劇)と音楽に共通する真理が垣間見える。

・・・などと、とりとめなく様々に思いを巡らす機会となった【Eclipse Live Vol.1】に感謝。塩高さん、吉岡さん、Vol.2を楽しみにしていま~す!

そして私は今、芥川龍之介の『袈裟と盛遠』に挑戦中。ハードルが、とてつもなく高い、高くて・・・見えないぞぉ~。

・・・to be continued・・・ カメ子はクロコ 🐢

2017年1月19日

カメ子のつぶやき 🐢
・・・忙しい、何だかやたら、忙しい。
 12月もかなり忙しかったが、年末に向けて頑張るぞ~的な、意味不明なやる気があって公私ともにエネルギッシュに動けていたが、年末年始の休みで休暇モードに切替えたら、年が明けて仕事始めとなってもギアチェンジが上手くできずあたふたしている。何だか脳内海馬の神経細胞が音を立てて崩壊しているような・・・、朝目覚めた時「あれ、今日は何曜日?仕事は休み・・・だったかな?」と、寝ぼける回数が増えてきたような・・・。カメ子にも更年期があるのかしらん、いや、もはや更年期ではなく・・・。
 そんなわけで、朗読修行もちょこっと寄り道も棚上げ状態。
 以下は賢人たちの言葉、昨年の手帳に書きとめたメモの一部を・・・つぶやきます。

~私たちが自分の人生と思っているものは、誰かによって見られている夢ではないのだろうか(木村敏)~

~私は私の人生を主催する者ではない。私は人生という劇を演出する者というよりはむしろ、そこの出ずっぱりの役者なのだろう。「いのち」とでも言うよりほかないものが「私」を登場人物とする物語を編んできたのだとすると、そこにほころびや矛盾が見いだされてもそれなりに合点がゆく(鷲田清一)~

~作品によってはわからなさ加減を伝えていくものがある。得体のしれないわからなさ、この世はすべて論理だった分かり切ったもので出来ているわけではないから(櫛部妙有:稽古場語録から)~

~All The world's a stage,
And all the men and women merely players.
この世は舞台、男も女も人はみな役者だ(シェイクスピア『お気に召すまま』から)~

・・・to be continued・・・ そろそろ花粉症・カメ子 🐢

2017年1月4日

 この時期になると思い出す。
朗読を始めて二年目、年が明けて初めての稽古での出来事。
私は前年から芥川龍之介「鼻」を読み始めていた。
「禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。」冒頭から読み始めたその途端。「あ、カラスノエンドウさん。止めます。  稽古しました?」と櫛部先生に問われた。
年末年始、私は一生懸命稽古していた。
「口が慣れてしまっているのです・・稽古の仕方は、難しいものなのですよ。」
狼狽する私に櫛部先生は「この作品は止めて、新しいテキストに移りましょう。
また、何年後かに、新たな気持ちで稽古したらよいでしょう。」とキッパリおっしゃった。
一度、口が悪慣れてしまうと、それを外すのは難しい、という駄目だしであったと思う。
あの時‘一生懸命’を向けた先は違っていたのだろうと思う。けれど、未だに「鼻」はテキストにできていない。

年末にテレビで、偶然『ざわざわ森のがんこちゃん』という30分の番組を見た。
娘達が幼いころ見ていた動物人形劇?で、谷啓が歌う主題歌が面白くておぼえていた。
数年前に終了したが、最近‘エピソード0’という名で一話のみ制作されたらしい。 テーマが当初からのものなのか、今回に限ったものなのか不明なのだが、不覚にも泣きそうになった。
この番組は、幼い人たちの心に芥子粒よりも小さい種を落としたかな、と思う。

櫛部先生☆語録
書かれている言葉が本当に伝えたい事は何なのか。その言葉の核の部分をどう捉えていって、それを声の言葉にどう繋いで行くか。それが朗読の表現を形づくっていく基本。
言葉が命を持っていないと、何も伝わらない。

           カラスエンドウ
        

2016年12月12日

カメ子のちょこっと寄り道 8 🐢
 今年は漱石没後100年、先週土曜の午後、夏目漱石国際シンポジウム第2部「世界は漱石をどう読んでいるか?」を聴講した。
 アメリカ・ノルウェー・韓国・中国の学者、漱石の作品翻訳に携わる人々による3時間を超える熱い報告に、海外にこんなにも深く夏目漱石と向き合っている人々がいることに驚くとともに、興味深い内容に時間を忘れるほどだった。
 シンポジウムに先立って「漱石国際エッセーコンテスト表彰式」も執り行われ、少し前に朝日新聞に掲載されていた最優秀賞受賞の若いカナダ人女性(現在、愛媛県英語指導助手として松山市の県立高校に勤務)はじめ、漱石愛に溢れる外国人受賞者8名が紹介された。各作品では漱石との出会いとその後の人生への影響等がユニークにドラマチックに語られている。→朝日新聞Digitalへのリンク
 会場には話題の漱石アンドロイドも初お目見え(私はちょっと苦手だが)、・・・あの世の漱石はどんな思いで今の世の人々の漱石熱を受けとめているだろう。「百年待っていてください。きっと逢いに来ますから。」『夢十夜』でそう遺言したうりざね顔の美女は、もしや・・・。

 一方で、今年はシェイクスピア没後400年という年でもあり、興味深い催し物がちょこちょこある。精神を病んだといわれる英国留学時代、漱石先生にとってシェイクスピアはどんな存在だったのだろう。
 血なまぐさい歴史劇や主人公がみーんな死んで終わる悲劇の数々は有名だが、ユーモアたっぷりの愉快な喜劇やロマンチックなコメディもいくつもある。シェイクスピアの場合、タイトルや謳い文句に騙されてはいけなくて、悲劇は意外に喜劇的だし、喜劇はその物語の根底に様々な悲劇を内包している。どの作品にも必ず道化が、あるいは道化的存在が登場して、ばかにしたりされたりしつつ、世の中を俯瞰して捉えていたりする。落語のようなやり取りもふんだんにある。『吾輩は~』の語り口など、そのままシェイクスピアに登場する道化の台詞のよう。
 シェイクスピアの最大の魅力は、時間空間を超えた普遍性、古今東西世界中の俳優たちが言語を異にしながらも同じ役に向き合ってきた。シェイクスピアは言葉が命だが、役を理解していれば、ある意味、言葉を超えて物語を楽しめる、シェイクスピアは世界の共通語なのだ。(ぁ、そういえば、先のシンポジウムで中国の研究家が「漱石は日本のシェイクスピアだ~!」と熱く語っていた。)
 新国立劇場のマンスリープロジェクト(4回連続シェイクスピア特集)第2回に登壇した翻訳家の松岡和子先生が、上海で中国語のシェイクスピア劇を観たとき「中国語はニーハオ、シェイシェイ、ウォアイニイしか知らないけれど、上演された舞台は全部わかった。しかも役者の良しあしまでわかった」とおっしゃった。私もその昔、デンマークでデンマーク語で上演された『ハムレット』を観たとき、同じように感じた。未熟者の私の場合半分?くらいしか理解できなかったが、役者の良しあしは間違いなく分かった。
 漱石先生は英国でどんな舞台と出会っていたのだろう。それとも、厳しい経済状況下では劇場に足を運ぶことは叶わなかったのだろうか。ましてや舞台に救われることなど・・・。

・・・to be continued・・・ ストレイ・カメ子 🐢 

2016年11月24日

 23日は、第三十回おとなのための朗読会。
この会の第一回は2006年の9月で、群ようこ、宮沢賢治、三浦哲郎の作品が朗読されている。
 昨年、これまでの全朗読会の録音カセットテープを聴く機会に恵まれた。今はこの会に居られない方々の懐かしい声も残っている。稽古に稽古を重ねて仕上がった朗読に聴き入っていた。そして、毎回真暗な音響室で、今は懐かしいカセットテープでの録音作業に携わる苦労もしのばれた。

 朗読会を微力ながら手伝う立場になってみると、自分が観客である時は気づきもしなかった事のなんと多い事か!何気なく添えられた草花や、照明の調節、静かに流れるBGMにも細心の注意が払われ、一つの舞台が形づくられている。何事もなく滞りなく進行してゆくことの難しさ。
※会場天井のチラチラと消えかかりそうな蛍光灯を、不安定な足場をものともせず脚立に上り、あっという間に交換して下さった西武分館の方々のプロ意識に、感謝。
 今回の朗読会、宮部みゆきの長い作品ふたつ、この朗読を作者に是非是非聴かせてあげたい!!
 物語を「わたしていく・・」ことのできる絶対必要条件は「物語をわたされた」感覚なのだと思う。

 23日、いい一日だった。帰り道、好きだった先代桂文治の落語をもう一度聞きたいと、唐突におもった。

☆個人的余談  翌日は雪。三ケ島は5センチ積もりました。
        薔薇の蕾に雪。 めったに見られない風景です。
        薔薇の名前はイヴ・ピアッツァ 花開けば芍薬咲の優雅な姿でした。


カラスノエンドウ
                           

2016年11月25日

 私の朗読修業-その8
勤労感謝の日、「おとなのための朗読会」が開催された。塾生二名の朗読はいずれも約50分のボリュームのある内容、二人ともに長い長い時間をかけて向き合ってきた作品。大事に風呂敷に包んで胸に抱き、舞台の上でその結び目をゆっくりほどいて、耳を澄ます観客にそっと手渡していく・・・そんな感じのする、心にじんわりしみ込んでくる温かい朗読だった。それは作品が持つ質の良さと、読み手の努力と愛とが合わさって育まれたものと思う。(Kさん、Iさん、素敵でした。拍手!!)
  そして、30回記念ということで登場された妙有先生の朗読は・・・絶品だった。 文字に書かれた樋口一葉「わかれ道」をさらっと読むと、明治の頃の少々馴染みにくい表現や言い回しに加え、え、ここで終わってしまうの?この先は?・・・と、何か突然取り残されたような気分になる幕切れに戸惑う(スミマセン。これは未熟者の私の場合です)が、先生のそれは、原文そのままの言葉が語られながら、聴き手にはまるで映像を見るかの如くその場面が見えてくる。幕切れは、その先に観客がしばらく佇むことを、その世界で引き続き物思いに耽ることを促すような、余韻に満ちていた。それを壊していいのか・・・拍手することが憚られる短い瞬間があり、そして、ほんの僅か表情を崩される先生の姿に呼応して、ため息とともに拍手が起こった。
 司会のOさんが「・・・まだしばらくこの余韻に浸っていたい思いがしますが・・・」と、皆の気持ちを代弁するように優しく閉会の言葉を告げられ、会はお開きとなった。 聴きのがした方、残念でしたね。

 今月の櫛部先生☆語録
(メモなので、行間は読む方が埋めてください)
・読み手は常に自由に根無し草のようにあること・・・。何にでもなれるように、且つ、物語の一本の筋は通していく。朗読の芯をつかむ。
・朗読の場合、やりやすいと感じたら用心すること。練って練って書かれた作品は、気持ちよく読める。でも、それをスラスラ読むのは、書き手にのせられているだけ。
・何をやってもダメ、難しいと感じたら、それは朗読のもっていき方、切り口が掴めていないから。アリ地獄に入り込んでしまったら他に目を向けてみる。いろんなものに触れ、いろんな事を考え・・・(心を耕してください)。
・他人(書き手)の言葉に合わせていくために、自分の呼吸でない呼吸をしなくてはならない、そこが難しい。呼吸が変わる、息遣いが変わる、身体ごと変わる。
・到達する先は、点ではなく、ある幅を持った場所、解はひとつではない、いくつかの解があって、そのどこかに辿り着けばよい。

・・・to be continued・・・ カメ子は冬眠中 🐢

2016年11月20日

 新聞の書評で表紙を見て、衝動買した絵本「ネコヅメのよる」町田尚子作(WAVE出版)。
 油彩で丹念に描かれた風景や、昭和三十年代頃を思わせる室内。ヒゲ一本おろそかにすることなく細かく描きこまれた猫、特に猫目の描写がいい。
 窓の向こうに広がる夜空の青い雲とテーブルに乗ってそれを見ているムクムクとした猫の後姿。一番好きな頁です。
 キャンバスのざらざらした質感と、絵の具が混ざり合って美しい。誠実に真摯に色を置いていく、そんな画風の絵が好き。

櫛部先生☆語録その1
 9月16日の稽古より
 言葉のひとつひとつで何かを説明しようとするのではなくて、ある全体、かたまりの中でその思いを伝えていく。読み手が内側に気持ちをしっかり持っていないと、かたまりで伝わらない。
 気持ちを維持していく集中力がないと、ただ文字を読んでゆくだけの退屈な朗読となってしまう。
語録その2 雑記帳より 「心を耕す」
 頭でわかっていることを、どうやって自分の気持ちのなかに、たたみこんでいくか。とかしこんでいくか。それがないと、声にそれがでてこない。うわべの読みの形だけを作っても聴き手には届いて行かないもの。 
              カラスノエンドウ

2016年11月7日

 私の朗読修業-その7 🐢
少し前をちょっと振り返って・・・Ⅱ(AYさんの思い出)
 今年3月のおさらい会、すったもんだの挙句になんとか『秋』を読み終え、全身脱力状態ながら脳内はややハイテンション気味の私は、打ち上げ会場への道すがら、ほんの少しの間、AYさんと並んで歩いた。
  妙有☆朗読塾のメンバーに共通していることは、櫛部妙有という朗読家に惚れ込んでいるという点、ある意味「違いのわかる男女」たちだ(ダバダ~♪)。名前程度のごく簡単な自己紹介でスタートした稽古初日、いつの間にかいつもの席が決まり通い始めて早三年、一方で先輩方がどんな方々なのか、経歴などは一切知らないまま、選ぶ作品と読む声と妙有先生のダメ出しに立ち向かう果敢な姿(?)でそれぞれの一面を垣間見、少しづつ理解していく・・・そんな場所がこの塾。(・・・と、あくまでもこれは私の個人的な感想。)
  そして、最初の一年数か月、私事都合で所属教室を移動(転校)するまでご一緒させていただいたAYさんは、いつも背筋の伸びた凛としたたたずまいの学者さん風(実際本物の学者さんでした!)で、持ち込む作品はユニーク、語り口は飄々として何か年齢やジェンダーを超えた独特の雰囲気があって、この作品をこんな風に・・・と想定外の面白さに気づかせてもらった。夏目漱石の『夢十夜』、宮本百合子の『おもかげ』、R.ブラッドベリの『歓迎と別離』、それらを読むAYさんの声が今も耳に残る。そのAYさんが、夏の終わりの頃、遠いところへ旅立たれた。
  あの日、坂道を下りながら、
  「全くあの俊吉という男は、はっきりしない。(AYさん)」(注:『秋』は若い姉妹とその従兄の俊吉との三角関係のお話)
  「はい、主人公の信子ではなく、俊吉側の一人称で描かれたスピンオフ版を読んでみたいです(私)。」
  「ふ~む、それは面白い(AYさん)」
・・・滅多におしゃべりなどする機会がなかったAYさんとの他愛もない会話だが、この時の何だか愉快そうにしていらした面影が夕暮れの景色とともに記憶に刻み込まれた。おさらい会では平家物語から『木曽の最期』を読まれた。何かぼくとつとした語り口の中に、巴御前や今井四郎の凛々しい姿が目に浮かぶ、力強い朗読だった。

  秋山さん、私も、背筋を伸ばして生きていきますね。 合掌。

  ・・・to be continued・・・ カメ子 🐢

2016年10月17日

 私の朗読修業-その6 🐢
少し前をちょっと振り返って・・・
『風立ちぬ』の「序曲」と「死のかげの谷」をはさむ一年間の間に、二つの作品に取組んだ。そのうちの一つが芥川龍之介の『秋』。堀辰雄が師と仰ぎ、帝大の卒論のテーマとした芥川龍之介が、それまでの作風とは趣の異なる手法を試みた、若い男女が主人公のいわゆる現代小説風の作品。「間」を生きる難しさと「地」の文章の取扱いの多様性を学んだ。短編とはいえ四つの章を通して読むと50分に及ぶ内容で、朗読塾2年生の私には超(長)大作だった。約7か月稽古を重ねた後通したときには酸欠状態に陥り、腕の肘から先がしびれて冷たくなっていた。完璧とはいえないが、例の「寝かせておくのも~」の法則に従って一旦終了し、半年ほどたって後おさらい会で一般観客の前で披露することになる。数え切れないほど繰り返し読んでいたにもかかわらず、当日本番前、まるで内臓という内臓がみな喉元まで上がってきたような心地がした。心地がした・・・だけではなく、直前のリハーサルで声は震えるし、息は足りないし、1分と読まないうちに「ちょっと、ちょっと~、外で深呼吸してらっしゃい(喝)!」と天の声。そう短くはない人生で、そこそこ緊張感が求められるシーンを多々経験してきたはずなのにこのざまは何としたことかと、自分が一番驚いた。出番を待つ間、「ああ、今日が最後かも・・・、貴重な機会をいただいたのに申し訳ない・・・、私はこの程度のものだったのか」と、退職願ならぬ退塾願をだすことまで頭をよぎっていた。
出番は休憩後、その休憩中、会場が温まってざわざわしている中、天の声は「マイクの調子を確認してみて」と、私がリラックスできるようさりげなく気遣ってくださる(謝々・涙)。期待(されてはいなかったかもしれないけれど)に応えたい、足を運んでくださった方々になるべく透明に作品そのものを届けたいと、祈るような思いで位置についた。
結果は・・・、緊張から100%解放されることはなかったが、徐々に物語の世界に入っていき、雑念は消え、深い呼吸がとれるようになり、なんとか最後の一行までたどり着いた。長くて、あっという間の50分だった。後片付けを終えた打ち上げの席で「(カメ子さん)、今日は飲んでよろしい」と慈愛(慈悲?)に満ちた天の声。そこそこ飲んで帰宅し、どっと緊張がほどけ、爆睡。こうして、朗読塾3年目に入ろうとするころ、私の公開おさらい会デビューの一日が終わった。

・・・・・・・to be continued・・・・・・・ カメ子 🐢

2016年10月15日

今日は満月、このあたりでは10月の満月にも十三夜といってススキや団子、栗などを月に供えるのです。

参宮橋 リブロホールで櫛部先生久々の「小川未明」。
初めて聴いた「ちょうと三つの石」は、なんとも言えない あじわい のある作品でした。
三人の夫たちが変わってしまったというそれぞれの石というのは、どんな形だろうといつまでも気になってしかたがない。家に帰って 未明の全集から探し出して頁を開いたら、文字として?の記憶があった。以前、文字としては読んでいたけれど、物語としては記憶に残っていなかった、、のだと思う。不覚。
「小川未明」飯能での再演をお願いいたします。

梨木香歩「海うそ」は、いい。最初に読んだ時は気が付かなかったが物語の始まり、月あかりが深々と落ちてくる風景が、「死者の書」の第2章に似ている。

櫛部先生☆語録@過去のお稽古ノート原文のまま※脈略不明瞭ご容赦
「おんものがたり候え」
能楽で、シテ方が‘語りだすきっかけになることば’と先生は話して下さった。※違っていたら訂正お願いいたします。
‘読む’ と “ものがたる” の距離ははるかに遠いぃ。  ヒクレテミチトオシ
              カラスノエンドウ

2016年9月28日

 カメ子のちょこっと寄り道 7 🐢
仕事帰りにまた寄り道。
銀座8丁目のクリエイションギャラリーG8で開催中の『158人の漱石』、お勧めです。
詳細は下記HP参照ください。
http://rcc.recruit.co.jp/g8/

  吾輩はカメ子である 🐢

2016年9月28日

 私の朗読修業-その5 🐢 
9月18日の稽古場から
いつも思うことだが、月二回の稽古では毎回濃い時間を過ごす。各自が持ち寄った自分が読みたい作品に其々に挑戦し、ばっさばっさダメ出しされる。それらはいつも固有のものであると同時に共通のもの、すべてのダメが自分に当てはまるから、聞き逃せない。
Y子さんは6月後半から取組んでいる芥川龍之介の『杜子春』、ダメの質が高度で大学のゼミみたい。K子さんは龍之介の処女作『老年』の第一回め、一回目は必ず通しで読むことになっているが、22歳の作品とは思えないシブーい短編がこの先どう語られていくのか、妙有先生からどんな秘話が聞けるのか、どちらも期待値MAX。
もう一人のK子さんは、立原えりかの『お祭り』、ソプラノヴォイスのK子さんが声を抑えて表現するシャボン玉売りの青年がイケメンに見えてくる。う~ん、竹野内豊ということにしておこう。
さらにもう一人のK子さんは、吉野せいの『春(洟をたらした神)』を仕上げる。通して読むと25分ほどの作品、読み始める前に先生が一言『ある明るさ、穏やかさ、懐かしさをもって(読んでください)』。そして、その通りの味わい深い仕上がりになった。拍手。K子さんがこの作品に魅かれた気持ちがしみじみ伝わってくる表現。(ひよこ達が見えました!)おまけに、この日皆にふるまってくれたお手製の『栗の渋皮煮』が本当に美味しかった~。ごちそうさまでした。感謝。
Tさんは藤原正彦のエッセイに挑戦中、この先どう変化していくのか、うふっ、楽しみ。
そしてカメ子は、夏目漱石の『夢十夜』から『第一夜』に挑戦中、4回目。10分足らずの小作品なのに、完成への道のりは、遠い・・・。

櫛部先生☆語録
~朗読で使える技術はたくさんある。どれを使ったらその作品が活きるか・・・。
書き手ごとに、作品ごとに、二次表現者(読み手)に何が求められているかを(探ること)。登場人物とともにその世界に入り込む場合もあり、反対に距離をとって突き放した表現、批判的なまなざしを持った表現が相応しい場合もある~
~思いが内側にあってもやり過ぎないこと、文章の味わいを厚化粧させるような読みにはしないこと~
~作品の味わいと表現・・・、読み手に肚があるか否か、肚が据わっていれば成り立つ~

・・・to be continued・・・カメ子 🐢

2016年9月9日

こんな本をみた
岡野弘彦『万葉秀歌探訪』
歌には句読点が付けられている。恩師折口信夫の影響らしい。中学や高校の授業でこの本が使われたら面白いのに、、と思う。
櫛部先生☆語録
折口信夫・死者の書について『お経につきあうように。理屈で解釈しようとせず、折口の言葉と向き合って、それに沿っていく』

余談 台風をすりぬけるように、娘が長崎、野崎島の旧野首天主堂を訪ねてきた。野崎島は今は住む人がいないらしい。
小高い丘に吹きさらされるように天主堂は立っているのだという。
雨に濡れながら写したという何枚かの写真(スマホ)をみているうちに、この天主堂で櫛部先生の『奉教人の死』を聴きたいと思った。
             カラスノエンドウ

2016年9月7日

 カメ子のちょこっと寄り道 6(京都編) 🐢
東京に気がかりな仕事の山を残したまま、駆け足で京都へ二泊三日の旅。
一日目はコーラスの演奏会を視聴。満席のコンサートホールは主に中高年女性の明るく華やかなおしゃべりで開演前からとっても賑やか。4部構成の第3部はなんとハワイアン、始まって間もなく風格を漂わせたフラのダンサー4名がこぼれる笑顔で登場。続いて大先生も登場!笑顔は赤ちゃんや小さな子供たちのものという固定概念がドッカーンと覆された。年齢は関係ない、いくつになっても笑顔は人の心を癒すのだわ。20数名によるコーラスは、どの曲も温かくて心をつつまれた。

二日目、土砂降りの雨の中、二条陣屋と京都絞り工芸館を見学。二条陣屋では、70代の女性ガイドさんが、やや薄暗い屋内の狭い階段や細い通路をスイスイ進みながら、総勢12名ほどの見学者(うち7名は海外からの訪日観光客)をほぼ1時間飽きさせることなく案内して回る。拍手喝采。絞り染めの工芸館では、総絞りのウェディングドレスや真っ赤な打掛にため息を漏らし、壊滅的な後継者不足の事情も伺って違う意味でため息も・・・。

三日目、台風一過の爽やかな青空の下、期待の大徳寺聚光院へ。国宝狩野永徳の襖絵を40分のガイド付きで堪能。千住博画伯の『滝』も拝見、群青色を背景に飛沫や描かれてはいない虹までが見えてきそうな臨場感ある素晴らしい作品。それもこれも、案内のお姉さんの巧みな語りが一役も二役もかっていた。この年齢になると、解説書より解説者がホントにありがたい。京都弁のはんなりゆったりした響でありながら、テキパキと時にユーモラスに参加者を魅了する解説はお見事。参加した回は『当り』だったのかな。(原則予約制、限られた人数で見学できて快適な環境。) その後、大徳寺内の高桐院へ・・・左右に竹藪を配した趣のある石畳の参道を進み境内へ、広縁に腰を下ろし庭園を眺めてひとときぼーっと過ごす。はぁ、日本ってなんて素敵なんでしょう。

帰路、新幹線の車中で昔々のディスカバージャパンなるキャッチコピーをふと思い出した。今回の旅、駆け足ではあったけれど、日本の文化、芸術と伝統の再発見、そしてそこに介在する人々、職人や芸術家からごく普通の人々まで、丁寧な仕事ぶりの大切さを感じた。音楽の魅力・笑顔の力、そして、ここでも『言葉』の役割を想う。頭から口から出て来た言葉ではなく、身体から生まれた言葉だけが、すぅ~っと何の障害もなくこちらの懐に飛び込んでくる。 やっぱりそうか~、といつかの妙有先生のダメ出しがまた頭をよぎったのでした。

カメ子の修学旅行レポート 🐢

2016年8月26日

 インターネット「YOU TUBE」に挙げられている歌人岡野弘彦の講演が好き。
このなかで語られている彼の師、折口信夫・釈迢空の歌がいいのです。

「基督の 真はだかにして血の肌へ 見つゝわらえり。雪の中より」

終戦直後の横浜の外人墓地。前を歩いていた師が、ふと目を止めた風景。
それがこの歌であったそうだ。
 岡野弘彦の歌も好き。歌集を買ってみようかと思う。

句読点のあつかい、読点のうちなおしに苦戦中。
櫛部先生☆語録  8月21日の稽古より
「自分が口にしている言葉を自分で聴き取りながら、文意や繋がりを確認しながら辿りながら読点の位置をあれこれ模索していく。そうゆう作業をすることが朗読の勉強です。
書き手が書き連ねた言葉をどうゆうふうに ‘音’にしていったら何が見えてくるのか。
聴く人に見えるように、どこで読点を入れればいいのか。その作業が一番大事なことです。」
             カラスノエンドウ

2016年8月13日

 カメ子のちょこっと寄り道5 🐢
シアタークリエ(旧芸術座)で、こまつ座の『頭痛肩こり樋口一葉』を観た。
主役は永作博美演じるところの樋口一葉だが、一葉周辺の登場人物(含幽霊)女優5人それぞれが、主役と言っていいくらいの熱演だった。なかでも、愛する男を死に追いやった元凶に恨みをはらすまで成仏できないと、あの世とこの世を行ったり来たりししている幽霊『花蛍』役の若村麻由美は、容姿端麗、所作美しく、台詞回しもお見事、コメディエンヌとしての魅力に溢れ、登場のたびに何をやってくれるのか期待して見てしまった。
樋口一葉はすごい、明治という時代・そこを生きぬいた人々はすごい、それを戯曲に仕立てる井上ひさしはすごい、そして作家の意図を丁寧に繊細にくみ取ってあの舞台に仕上げたスタッフ陣はすごい、お芝居ってほんとに面白いなぁ、とつくづく思った。(そうでない舞台も多々ありますが)この日は、終演後に松岡正剛氏と井上麻矢さんのスペシャルトークショーというおまけもついて、興味深い内容にすっかり惹きこまれ、猛暑の疲れもひと時どこかへ消えていた。正剛氏は「日本の小説の中で、『たけくらべ』に一番の影響をうけたかもしれない」のだそう。早速ネットで『松岡正剛の千夜千冊』をチェック、第638夜をじっくり読んだ。う~む、納得。
櫛部先生☆語録
『心を耕してください。』
読み手の内側に心構えがあって初めて声にする意味がある。書かれた言葉の奥にあるものは何か?朗読は、ただの説明ではない。言葉の内側に常に何か気持ちが動いている(・・・それを探っていく作業を丁寧にコツコツと)
  カメ子 🐢

2016年7月31日

 恒例 こども図書館まつり無事終了。苦戦したガマ君ともお別れ。
 絵本群読で図書館の方が各頁の挿絵をスクリーンに写して下さった♪嬉しかった。
 終了後「U」で反省会。窓辺の木机に置かれた数冊の文庫本のなかに佐藤初女さんの背表紙をみつける。
 この店で食に携わっている若い方達が初女さんを愛読してくれているのが嬉しかった。
 初女さんはこの二月に95歳で亡くなってしまわれた。
 以前、龍村仁監督作品の「地球交響曲 第二番」でダライ・ラマやジャック・マイヨールと共に紹介された初女さんの姿は、何故か、梨木香歩さん著「りかさん」に登場する麻子 さんと重なる。
 ガマ君の稽古を始めてから、「渡していく」という櫛部先生語録がずっしりとのこる。
 金曜日は三週間ぶりの稽古。Nさんの火野葦平がものすごく楽しみだ。
             カラスノエンドウ

2016年7月27日

 私の朗読修業-その4 🐢 
 日曜の午後、妙有☆朗読会7月公演『耳なし芳一のはなし』の話。
 いつも通り先生は涼しやかな面持ちで姿勢よく登場、どんなお話から始まるのかと思えば、幕末から明治初頭にかけて波乱万丈の日々を生き抜き、後にヘルンさん(小泉八雲)の伴侶となったセツさんの、聴くこちらが姿勢を正さずにはいられなくなるような怒涛の半生の物語・・・、いつもながら前節の段階で心を鷲づかみにされる。続いてセツさんが語り手となる八雲との「怪談」誕生秘話。ふぅ~、妙有先生が世が世ならお姫様であり続けたはずの、苦労の末もその雰囲気を失わない小泉セツに見えてくる。
 そして『耳なし芳一のはなし』。紅顔の美少年を思わせる盲目の琵琶法師芳一、人のよさそうな和尚、平家の落武者の厳つい風貌、貴人に仕える女房頭、それぞれの声が聴こえ、姿かたちまで見えてくる。芳一が奏でる琵琶の調べ、語る平家の悲しい物語に聴き入る声なき姿なき亡霊たちまで見えてくる。こ、こわい。
 でも、もっと怖かったのは、終演後の先生の言葉、「今日は、途中でもう駄目かと、最後まで行きつかないかとおもいました。」とこっそり洩らされたつぶやき。先生からそんな弱気の発言を聴いたのは初めて。体調が完璧ではなかったご様子。ぐぅ~、それを微塵も感じさせない90分に脱帽。・・・怖い。塾生になって二年半、追いかける先生の背中が、近づくどころかどんどん遠く小さくなっていくような・・・どうしよう、こわいよ~。
 7月17日(日)の稽古場にて、櫛部先生☆語録
 ~『身体ごと切りかえる』・・・登場人物と地の文の切りかえ、人と人との切りかえ、それは頭だけ声だけ変化させるのではなく身体ごと切りかえる。声の本質は身体にある。相応しい身体の構えをとれば相応しい声が出てくる。~

          カメ子

2016年7月23日

 先日、夏の暑さをしばし忘れさせてくれる、まるで高原の風を運んでくるペンションの様なたたずまいその名も(風の道)で、櫛部先生の「耳なし芳一」を聴いた。
  やはり怪談は、先生の真骨頂かしら。本当にこ、怖かった❗全身がひんやり亡霊、女、和尚と楽器のごとくに声音がクルクルと変化し観客達は、その世界に吸い込まれていった。
 芳一が、経文を書くのを忘れられた為耳をもぎ取られる場面では、「うっ」思わず私の耳にも痛みが走る。物語りが終わっても誰も、なかなか席を立とうとしない。しばらくして感動の為か、はたまた妖しい世界から抜け出せた安堵感からか、皆さん思い思いに満足気な笑顔を浮かべながら帰って行かれた。
 アー、幸せな時間だったなぁ
          らんらん😃

2016年7月8日


 『がま君かえる君』に苦戦中。
 この絵本の翻訳者は三木卓さん。
 あの高田渡の「系図」は三木さんの詩をカバーした曲であることを初めて知った。 この人が歌う時の声が好きだ。
 ※ほろ酔いの彼がライブハウスで演奏中に、歌いながら寝入ってしまうのは有名な話らしい。
 音が伝えるもの、音から受けとるもの、 残こるものは 何だろう・・・参宮橋で聴いた、一つの音。
 琵琶奏者の撥が 弦を下から上にむかってこする?ような動きで不思議な音を奏でた。時間が過ぎて音楽センス皆無の私に残ったのは、その音そのものではなくて、音がみせてくれたビジョンの触感のようなもの・・
 ああ!すみません。あれほど特等席で聴かせていただいたというのに・・・猫に小判。
 櫛部先生☆語録
 6月25日の稽古より
 『書かれていないことを、どうやって、くみとっていくか、書かれていないことが朗読の“もと”になる』
 7月1日の稽古より
 読みの個性について
 『読みの装飾的な癖を全部外していって最後にその人の“芯”としてのこるもの、それが個性。
 作品にしっかり添った時に、同時にその人らしさ(個性)がでてくる。
 読みの癖や装飾を全て外していって、そこにのこる“芯”がその人の個性。
 だから余計ものをつけ加える理由も必要もない。』
         カラスノエンドウ

2016年7月7日


 カメ子のちょこっと寄り道 4 🐢
 仕事帰りに、また寄り道。社会学者の小熊英二氏が初めて監督したドキュメンタリー映画『首相官邸の前で』を観た。3.11の福島第一原発事故の後、毎週金曜の夕方に継続して首相官邸前に集まって脱原発の抗議行動をしている人々をフィルムに収めた作品。インタビューとブログやSNSに挙げられた記録映像で構成されている。
 登場人物はほとんどがそれまでデモだとか社会運動には無縁だった人々、それぞれが置かれた多様な状況と関わり方に目が離せなかった。中でも強く印象に残ったのは、恐らく所要時間5分に満たないシーンだが、有機農業に取組んできた60代くらいの女性が訴える姿。子や孫たちのため、身体にいいもの、健康にいい野菜を食べさせたいと、有機農業に専心してきた人生を壊されてしまった事への怒り。彼女は愛と怒りと理不尽なものへの反発と為政者への挑戦を見事に言葉にして全身全霊をこめて訴えていた。不謹慎な感想で申し訳ないが、もしあれがフィクションだったら〇〇賞主演女優賞を受賞するほどの文句なしの一場面だった。熱情に溢れ、しかも感情に溺れず、言うべき言葉を選び(カンペなし)、理性的であろうとするがゆえに逆により強く伝わる怒り、沈黙の瞬間さえも味方にした力強い演説だった。他人が涙する姿についもらい泣きすることがあるが、哀しみ苦しみに号泣する姿より、それを必死に堪えようとしてこらえきれずに流れた涙により心を大きく揺さぶられる。涙はいらない、同情するなら行動を、と画面の向うから彼女の声なき声が聞こえてくるようだった。
 上映時間109分、おまけに小熊監督ご本人と上野千鶴子氏・香山リカ氏のトークショー40分付シンポジウムは密度の濃い時間だったが、テーマとは別のところでも(朗読を学ぶ者として)得るものの少なくない機会だった。
 その二週間後、松井久子監督のドキュメンタリー映画『不思議なク二の憲法』を観る。監督の手腕もさることながら、インタビューに応える20数名の出演者の言葉の力に感動。その人の人生に裏打ちされた言葉は年齢を問わず力強く嘘がない。唯一台本を基に語るナレーション担当は女優竹下景子、エンドロールの流れる中朗読される『日本国憲法前文』には、彼女(あるいは製作者)の決意と意思が感じられた。
 ドキュメンタリー映画も・・・すごいな~
 カメ子、政治と社会にちょこっと目覚める

2016年6月23日


 カメ子のちょこっと寄り道 3 🐢
 日曜の午後、参宮橋までお出かけ。琵琶のライブ演奏会、薩摩五弦琵琶の調べに視聴初体験にしてイチコロ。 うぐっ、うぐぐぐぅ~、なんと多彩な音色を奏でることか。
 昨年、妙有先生の『からくりからくさ』で初めて演奏家塩高和之氏の楽琵琶を聴き、今思えばあの時は物語に夢中で、琵琶の音色は『雰囲気あるBGM』と位置づけていた(ゴメンナサイ)・・・。今回聴いた薩摩琵琶、五本の弦はそれぞれに個性豊かに奏でられ、曲目故かもしれないが、強弱高低太細硬柔遠近甘辛苦旨・・・表現力の乏しい身にはどう説明していいか分からないが、相反する二極間を繊細に自在に駆け巡り、あらゆる方向に複雑に深く広がっていく世界を感じた。
 音楽は耳で聴くものと思っていた。が、この日は演奏家の一挙手一投足に目が釘付けになった。姿勢・呼吸・バチさばき、その一音を生み出すため、その一小節を奏でるためにはそれしかないといった必然の中で生まれる瞬間瞬間に立ち会い、それが連なって一曲が生まれるのを見せてもらった気がする。集中力は半端なく・・・塩高さんの薩摩琵琶、本当に素敵でした。まじやば!
 Bravo、bravissimo !
 初体験でちょっとお熱(知恵熱?)のカメ子♡

2016年6月19日


 お薦めに従い琵琶と語りの公演に行ってきて・・・
 櫛部先生推薦の塩高和之さんと古澤月心さんの主宰する琵琶楽人倶楽部。その開催100回記念公演に行ってきた。
 客席数60名のホールに,朗読塾関係者は櫛部先生も入れて総勢7名。
 私自身,櫛部先生の朗読会で塩高さんの演奏は何回か聴いており,全く知らない訳ではない程度でいたのだが, 今回の公演で認識不足を思い知らされた。
 会場は満員御礼状態で,多分音響学的にはデッドな筈なのだろうが・・・
 楽琵琶,薩摩琵琶,尺八。 何となく思っていたものと演奏の迫力が違う。ホールに響きわたる弦のアタック。 尺八の独特のかすれた響き。 演奏家により紙に記された記号に命を吹き込まれていっているのが分かる。
 更に驚かされたのは,語りを担当された古澤月心さんと古澤史水さんの声。 日頃の鍛練の成果と言えば簡単だが, 人の声の持つ力(言霊)とでも言うのだろうか? 先生の朗読にも通じた何か実在するもの。 それが聴くものに迫ってくる。
 平家物語の壇の浦の段。 琵琶と語りに涙が溢れた。
 「邦楽」という,いっぱ絡げた表現だと某局のラジオの番組を思い出す。 その番組は琴や三味線中心だった様に思うが, 日本の古くからある音楽の流れというと,そんな感じのものという潜入観があった。 しかし,今回公演は雰囲気的にも質的にも それとは全くとは違ったものだった。 多分,番組のものも生演奏なら感じ方が違うのだろう・・・
 「百聞は一見にしかず」。 やはり,本物に触れることは大切だ。 先生の推薦がダテではなかったことを痛感した。
 とは言っても,今の私の朗読にこの体験がどう影響するのか全くわからない。
 それでも,このことが目に見えぬ形で朗読やものの考え方を変えてくれるのだ(と信じたい)。
 今年の夏は先生の「耳なし芳一」が聴けるというような噂がある。
 もしそうなら,そのときは亡霊たちのおめき悲しむ光景が,より真に迫って感じとれるのかも知れない。
         - Nyao -

2016年6月14日


 私の朗読修業-その3 🐢
 ある精神科医が『失うのは1回きりだとしても、人は何かを失ったとき、それを失い続けるともいえる。』とその著書に書いている。大切な人を失くした人は、その喪失感を繰り返し味わう。車中の何気ない会話、箪笥の引出しにしまったままの寝巻、街角で偶然出くわしたあの日の表情・・・日常の中でふとそれらが過ぎり、何かの兆しに胸がざわつきふり返るが、そこに応えるものはない。
 「風立ちぬ」の最終章「死のかげの谷」は、婚約者を失って一年を経過してなお喪失感を反復し続ける『私』が、12月、雪に閉ざされた高原の山小屋へやって来るところから始まる。ごく僅かな人々との会話、かつて夏の日々恋人と過ごした風景とは全く異なる景色、其処に届いたリルケのレクイエム、それを読み進めるうちに自分自身の存在について、又、自分がどれだけ愛されていたかに思いを馳せ、その谷間辺りを人々が言うように「幸福の谷」とよんでもいいような気がする・・・程度に息を吹き返す『私』が、ゆったりとほのかな明るさすら漂わせて描かれ、幕を閉じる。
 城山三郎は「そうか、もう君はいないのか」と綴り、寺山修司は「さよならだけが人生ならば・・・」と詠う。だれもが皆、いつかどこかで同じような思いを経験する。
 作品を読むとき、眼で文字を追い言葉を理解しストーリーを把握する。面白かったとか、なんだかあまり好きじゃないなとか、普通はそれでおしまい。でも朗読の題材と決めたらそうはいかない。時間の経過、景色の変化、物語の背景を意識し、言葉にあらわされていない沈黙の行間を探り、『私』の日々を自分自身の某かの喪失の記憶と共に追体験する、繰り返し、繰り返し。そして読み手として、聴き手に向けてどう表現したらそれをともに追体験できるか、模索する。
 「死のかげの谷」に取組み始めた2015年4月、櫛部先生☆語録
 ~朗読とは、人が持っている共感する能力に訴える行為。言葉の意味を伝えるのではなく、言葉の奥にある思いを伝える。思いを感じて、感じて、言葉にしていく。でもやり過ぎないこと。聴き手を信じること。~  うむ、フム。 
 ・・・to be continued・・・ 
     カメ子

2016年6月11日


 朗読の会・貴香にて
 櫛部先生朗読 『猿の眼』を聴く。

 なにが怖いって・・
 一度は消えてなくなった猿の仮面(めん)が、三年の後、孝平という半端な骨董屋によって再び持ち込まれる。
 ここで、それまで ひたひた と漂っていた恐怖?が一気に高まる・・怖い・・怖いんだ・・・。
 昔、梅津かずおの「人の顔の肉を剥ぎとって面をつくる」というような漫画、(かなりうろ覚え)ストーリーも忘れてしまった、その漫画を見た時の怖さそのものを、突然おもいだし、もっと怖くなる・・。
 紫陽花が植えられた土の成分によって色が違ってくるように、岡本綺堂の怪談は聴く者に潜在している何かと呼応して、化学変化のように個々に違った怖さを感じさせるのではないだろうか??

 ああ・・この季節でよかった。窓の外は空はまだ明るさを残している。

 しかし・・・今回 初めての会場「風の道」の見晴のいいテラスで刻々変わる空の色や遠景に広がる森を見ていたら、とっぷりと日が暮れる初冬の頃、また、ここで岡本綺堂を聴きたい!とも思った。
 あのぉぉぉ その時は『白髪鬼』お願いいたします。
         カラスノエンドウ

2016年6月4日


 昨日の稽古より

 以前から思っていた。私の家には盗聴器が潜んでいるに違いない。
 その盗聴器には、、、きっと小さく「櫛」マークが刻印されている。
 ここしばらく読み迷っていた部分を、先生は1ミクロンのズレなく駄目だしされた。
 やっぱり!盗聴器がひそんでいる。確信!

 Nさん稽古中の『水紋』 火野葦平 河童曼陀羅の一編河童(体長20cmくらいと推定される)の演説部分を先生が語ってみせてくれた。
 面白い!! 先生が、かかかか河童に見えてくる。是非、朗読会のプログラムにお加えください。
 櫛部先生☆語録@過去の雑記帳原文のまま※脈略不明瞭ご容赦
 『登場人物の思いを、読み手と聴き手で共有していく・・・その人生を追体験していく』(平成27年1月10日の稽古より)
 皆、時間は限られているので、そんな本を読み続けたい。それが楽しい。
         カラスノエンドウ

2016年6月3日


 カメ子のちょっこっと寄り道 2 🐢
 仕事帰りに、また寄り道。先日亡くなった演出家蜷川幸雄氏の遺作『尺には尺を』を観た。シェイクスピアの喜劇のうち問題劇とも分類される一作、若き日のメリルストリープが舞台でヒロインの修道女見習いイザベラを演じたことでも知られる作品だ。
 シェイクスピアの戯曲は決して勧善懲悪ではない。納得いかない、つじつまの合わない、不条理な、理解に苦しむ、つまりは突っ込みどころ満載の、この世の中そのものを(時には魔女や妖精・亡霊まで登場させて)描いて見せる。そのテキストを使って、とことん悲劇でも、都合のいい喜劇でも、幕が下りた後に深い余韻と感動が生まれれば成功だ。
 そして今回の舞台、カーテンコール二回目に登場した蜷川氏の遺影に、私は起立し心から拍手を送った。(偉そうな言い方でゴメンナサイ) ネタバレになるので詳細は省くが、ラストシーン、ヒロインイザベラがひとり舞台に駆け戻り、手にした白いハトを空高く解き放つ・・・戯曲にはないそのシーンに、観客に寄せた蜷川氏の愛と信頼と真心を感じた。
 稽古場は演出家のもの、本番の舞台は役者のものと言われたりするけれど、生まれた作品は観客のもの・・・そんなメッセージを、私は確かに受け取りました。そうですよね、蜷川さん・・・。 合掌。
  シェイクスピアリアン・カメ子

2016年5月29日


 先月下旬、都内某所に芝居を観る為足を運んだ。
 素晴らしい舞台装置、膨大な長ゼリフの掛け合い、迫力満点の舞台は、さすがプロと感じたけれど....
 でもでも朗読は、言葉のキャッチボールをする相手役もいなければ、趣向を凝らした舞台装置や眩いライトもない、演出もすべて1人でこなさなければならない。ひょっとしてこれって凄い事なんじゃない?(自画自賛だわ)作品をどの様に魅せるかは、自分次第
 それは怖くもあり、とてつもなく楽しい事でもある。
 十数年前、先生の朗読を初めて聴いた日の衝撃は、今でも忘れられない。それまでにも何度か朗読のようなものに触れる機会はあったが、「う、うーん」正直こちらの心に響いてこないものばかり。
 し、しかしこの時は違った。「み、見える、あそこに女の子が立ってる!」(決して幽霊ではない、フフフ)
 先生が紡ぎ出す言の葉は、やがて言霊となり、圧倒的なリアリティーをもってその世界に入り込ませてくれる。先生のまわりに風景をまとわせ、まるで映画のワンシーンの様に。
 私にも出来るのだろうか?いつの日か、人々の心を震わせる読みが....そうなれる日を願って(いえいえ少しでも近づける様に)今日も稽古を続ける
     らんらん😃

2016年5月27日


 カメ子のちょっこっと寄り道 🐢
 少し前の話。まだ底冷えのする1月下旬(本来の姿では冬眠中です~)、仕事帰りに『活字文化公開講座~絶望を書く、希望を描く~』と題するシンポジウムを聴講した。芥川賞作家O氏と直木賞作家N女史の対談と文学を志す学生を交えてのトークショー。小説を書く動機や創作意欲を書き立てるもの等について、普段から交流のある馴染みの二人らしく、自然体(天然?)で率直な肩の凝らない話で会場は盛り上がった。終盤、司会者氏が『文学は人を救えるとお考えですか?』と、直球を投げかけた。関西の漫談家のごとく絶妙の間合いと言葉選びで話をリードしていたN女史が、一呼吸とって『・・・本はおにぎりにはなれない、飢えや貧困、戦争といった具体的な困難を解決することはできないけれど、それでも世界を救うことはできると思う。なぜなら、私は救われたから。』と清々しく言い放った。
 その少しあとの話。桜の蕾が膨らみ始めた3月下旬、櫛部先生の朗読会で別役実の『なにもないねこ』を聴いた。これが三回目、やはり心に響く。初めて聴いたとき「これは、私のことだ」と思えてジーンときた・・・のは、きっと私一人ではあるまい。先生は朗読会の席で、朗読にどんな力があるだろうかという話をさりげなくされた。それは、人にそっと寄り添い励ましてくれる力を湛えていると、私は思う。ただし、書き手が命を削って書いた文章を、読み手もとことんよみきったればこそ・・・
 で、やっぱり、♪しゅ~ぎょおはつづくぅ~よ、どぉ~こまぁでも~♪
 5月15日の話。櫛部先生☆語録(カラスノエンドウさんに倣って)
「・・・難しいと思わないで『慣れていない』と考えて、・・・ちょっと複雑なだけですから、解きほぐしていけばいいのですよ。ホホホ」 うほっ。
 ~スクウ スクワレル ソレガ ギモンヂャ~ by カメレット

2016年5月22日


 5月3日の「砂かけ婆」さまよ、わしゃあ、古りい人間じゃきに、わきゃあ人の言葉がようわからんけに、説明しちゃくれんかのう。
 (うふ恋文♪)ちゃあ、どんな恋文やろか、今からでもうまくいくやろか?
 そいと「~有料朗読会(パフ パフ~~!)」がわからん。息切れしたコイじゃろか?
 メードの土産に、ひとつ教えちゃくれんやろか、のし。
 ちなみに、カメ子はんの「朗読修業」の続きはどげんなるんやろか。夢見るカメ子の行衞……。
 ひかりも届かぬ深海は、透明らしいのじゃが……。目がはなせんのう。
        よろよろ法師

2016年5月21日


 昨日の稽古から、Sさんが「たけくらべ」を読み始められた。
 先生は「たけくらべ」を『美登利と信如の淡い恋ものがたり・・というふうに、うけとらないように』。
 この話は『生活が吉原で成り立っているような小さな町に住む大人たちの事情をまともに受けたこども達の在り様を群像劇として描いた作品』と、話された。
 以前のクラスで、やはり、この作品を稽古されていた方がいた。
 同じ作品でも、読み手によって印象、、というか、見えてくる‘色合い’のようなものが異なるのを実感する。
 それぞれが違うテキストを稽古し、その時間を共有していく、。作品が仕上がっていく過程を身近に感じることが楽しい。 、、とそんな事を思っていたら、肝心の自分の稽古の録音を忘れる。不覚。
 昨日の稽古の櫛部先生☆語録
 「文字は言葉そのものではない」
 「語っていくうえで、変化ということ」メリヤス?? 詳しくは先生にうかがって下さい。
 「誰かへの駄目出しは、、みんなの駄目だし」←実感

 よろよろ法師さんの助言にしたがい福田恆在『私の國語教室』というのをアマゾンで古本購入してみる。
 難解で、おもいっきり眉間が痛くなる。 老眼鏡を変えても無理かもしれない。
        カラスノエンドウ

2016年5月12日


 私の朗読修業‐その2
 堀辰雄「風立ちぬ」は、夏の終わりの恋に始まり、それが愛に深まる間もなく病に倒れやがて死を迎える恋人との二年余りの日々が、軽井沢の高原と八ヶ岳山麓の療養所を舞台に、そしてまた恋人の死後一年たって再び一人訪れる冬の軽井沢の自然を背景に、一か月に渡る主人公『私』の心模様が語られていく物語だ。
 最終章「死のかげの谷」の終幕、『私』はようやく少し彼女(の魂)との距離を持てるようになって、そのことにほっと安心するかのように地面の落葉をかるくゆする風となった恋人の魂が微笑む(・・・と私は理解する)シーンで、幕を閉じる。
 「序曲」の稽古で四苦八苦していた初めの頃、「いつか、死のかげの谷にも挑戦できるといいですね」と、妙有先生がおっしゃった。「あ、はい。・・・頑張ります。」と笑顔で応えながら(そ、それは、無理じゃ~)と心の内で呟いていた。が、完成とは言えぬまでも、「いったんここで終了し、作品を少し寝かせておくのも、またいいのですよ」と深~いアドバイスをいただいて、半年かけた「序曲」を終え、一年後、どうしても最終章が読みたくなった。未だ形にならない心の奥底に眠るものに誘われ、「死のかげの谷」を声にしてみたいという思いに駆られた。
 およそ生きとし生けるものに共通する命題、人は生まれ、生き、死ぬ。その人生で、私たちはどうしてもだれかと出会い、そして別れる。「死のかげの谷」を「幸福の谷」とよんでもいい位になる道程を、行きつ戻りつしながら9か月かけてゆっくりゆっくり歩いて行った。
 ・・・to be continued・・・  
        夢見るカメ子

2016年5月9日


 ☆先週金曜日の稽古で 一つのテキストが仕上がった☆☆☆。
 ※私ではありません。

 このテキストが稽古され始めた頃、先生はこの7分くらいの短編を「作者が、、掬って(抄って)みせた水」と表現された。
 そして掬った(抄った)もとの水、どこから掬いだしてきたのかを、、あれこれ考えて、どのように聴き手に届けるかと、話された。
 いつも先生がいわれる“作品の世界が求める音声表現” それを考えていくと作家の生きた時代背景や生い立ちにもつながり、作家論や、文章講座にも広がってゆくのが、とてもおもしろい。自分の稽古はパスして、、これだけ聴いてコッソリ帰りたくなる。
 今、稽古中の第五章中盤。
 『岩窟のなかは、沈々と黝くなってひえていく』
 沈々は ‘しんしん’ なのか ‘ちんちん’ なのか・・・・悩む。
 この漢字を目にした印象で声にすると 間違いなく ‘しんしん’  
 けれど、、この物語の作者と物語全体に 及ばずながら及ばずながら及ばずながら思いを馳せると・・
 臨場感が感じられる‘ちんちん’ではないだろうか・・・
 いやぁぁぁ やっぱり ‘しんしん’がしっくりくるかなぁぁぁ  
 ううううん   しっくり、、くるのは、、正しいのか、、、

 “作品の世界がもとめる音声表現”・・・・・・
    ああ ヒ、クレテ、ミチトオシ
        カラスノエンドウ

2016年5月8日


 3月5日と12日にアミーゴで催された塾生の温習会の記録を、CDにまとめていただいたのでさっそく聴きました。 ウイスキーのロックを片手に、ふむふむ、ほほお~、ここの間合はいいな、などととてもいい気分でしたが、自分の朗読が耳に入ってきたとたんに、な、何だこれは?! きっと、俺の甘やかな声音に嫉妬した録音技師が、こんなに聴き取りにくく収録したんだ!(とは全く思いませんでしたが)とにかく違和感がむらむらとわき起こり、つい三度も小水に立ってしまいました。妙有先生から「ホラは吹いても(とはおっしゃいませんでしたが)、マイクは吹かないで」と御批評いただいたのも、(口惜し)涙が出るほどうれしかった。こうして、このところ、温習会のおさらいばかり、というわけです。
 ところで、「ひとこと」欄のご盛況、お喜び申し上げます。カメ子さんはじめムーミンママから砂かけ婆さんにいたるまで、カラスノエンドウほうばりながららんらん気分で高山目指して朗読街道まっしぐら、って感じ。
 妙有先生、目眩を覚えませんか?
 で、みなさまのお話がいちいち楽しくて突っ込みたくなるのですが、ここは我慢して一つだけ、品よく……。
 4月27日のカラスノエンドウさんの「折口と小林は、ものすごく気が合わない」という趣旨、賛成ですね。
 だいたい文人という輩は「相軽んず」世界、況んやこのお二人はなかでも頑固者、信夫が死者だったから秀雄は『本居宣長』が書けたのでは?
 福田恆存さん、ぜひ読んでみてください。確か新潮社だかで旧字旧仮名遣いの著作集が出ていましたが、文体を大切にされる芯の強いナショナリストでした。それに、我が朗読塾塾長はうら(裏、ではない。念のため)若き頃、恆存さんの謦咳に接しておられるようですし。
 今日は、ここまで。
        よろよろ法師

2016年5月4日


 「猿の目」・・・聴きたかった。
 先生の「耳なし芳一」も「利根の渡し」も・・・こわい。

 今日、目黒区美術館に 高島野十郎展 見に行く。没後40年 よかった。
 「見えているものを執念深く描きこんでいくことで、見えていないものを描き出す」らしい・・・
 美術館に隣接して区立?の屋内プールがある。
 目の前は桜並木。花の季節は、きれいだろう。
 美術館、プール・・・・ときて江国香織さんの「デューク」を思いだした。
 「デューク」の季節は確か冬だったけど、。
 高島野十郎は、よかった、、よかったけど。
 それにしても、、「猿の目」聴きたかった。

 飯能公演お願いいたします。
        カラスノエンドウ

2016年5月3日


 前回のお稽古、わたくし欠席でした・・・
 ↓せっかくらんらんちゃんが来てくれたのに、聴けなくて残念っ!!
 らんちゃん次は童話なのね・・って早速HPの朗読塾を見ましたよん♪
 (さては季節物の題名の作品?)
 らんちゃんは仕上がりが早いから、聴けるのが楽しみだよ~~!
 (うふ恋文♪)
 さて、今日は“朗読の会・貴香”に行ってきました。
 塾生のY君が、先生と二人で初の有料朗読会(パフ パフ~~!)
 内田百閒「豹」
 聴いてて、ガラスのとこは私もサブいぼ出ました。
 あぁ!内田百閒、読んでみなくっちゃって思いました。
 (↑読んでないのかよ・・)
 出会ったときは大学生だったY君の新たな一歩。
 これからだね!がんばれ~~
 そして!先生の「猿の眼」・・・・・満足すぎる怖さ。
 闇に青く光る眼、泥にまみれた白い寝巻き、つかまれた髪・・ほぼおばあさまの緩やかな昔語りなのに要所要所が・・・・ぎゃ~~~っ・・・でした(泣
 さらにさらに。
 「豹」「猿の眼」についての先生の作品解釈の面白さときたら!
 もうひとつ物語を聴いたようでした(ラッキー)
 ふふふ・・・気になった塾生の皆さま。
 お稽古の時先生にうかがってみてくださいましね♪
        (砂かけ婆)

2016年5月3日


 先日の稽古は、いつもと違うグループへ振替での参加。皆さんの読みを聴かせて頂く。うーん新鮮、本当朗読って面白い。
 男性には男性の、女性には女性の趣があり例え同じ作品を読んだとしても、1人1人顔や声が異なるように1つとして同じものには、ならないのだ。そして読みの技術だけではなく、その人のまとっている今まで生きてきた人生までも、まるごと写し出してしまう気がする。
 ふ、深い。私はというと、取り組み初めた童話を読む。「この前の作品が長編だったから、ちょっと気分を変えて短めのものにしようっと」などと安易に考えていたら、先生からの愛のムチという名のダメ出しが、ビシビシと響き渡る。
 「短いからといって決して簡単なわけではありません。童話でも作品によって作家の想いをくみ取って、それにあった世界観を作り、哀しみは表現しても暗く翳った読みになってはいけません」この日も美味しい御菓子と紅茶と共に、心の栄養もたくさん頂いた。
        らんらん😃

2016年5月1日


 私の朗読修業‐その1
 今から二年半ほど前、堀辰雄の「風立ちぬ・序曲」を題材として私の朗読修行はスタートした。
 作品を選んだ理由は、なんとなく、いくつかある。空や飛行機が好きで、ユーミンの『ひこうき雲』という曲が好きで観たジブリの映画『風立ちぬ』、零戦設計者の物語だが、堀辰雄の『風立ちぬ』の世界観に包まれていると知り、『風立ちぬ』といえば、♪ か・ぜ・たちぃ~ぬ~、い~まぁはぁ、あき~ ♪ と、聖子ちゃんのそのフレーズしか思い浮かばない私だったので、では一度読んでみようと思ったこと。序曲だけなら通しても17分程度と、長くもなく短くもなく丁度良さげだったこと。語り手は男性だが日記形式で語り口が一人称、なんとなく入りやすく感じられたこと。作品全体を捉えるのは大変そうだけど、序曲だけならなんとかなるかもという安直な考え・・・等々すべてなんとなくだった。そして、たった17分をまがりなりにも通せるようになるまで半年の稽古を重ねることになる。その間、櫛部先生の口から生まれたダメ出しの数々、それがダメ出しの域を超え文学のジャンルに留まらず音楽や絵画や古典芸能や時には古武術の話まで・・・私がダメ塾生であればあるほどそれは多彩に降り注がれた。毎回、眼を開かせてくれる感動的な逸話やうぐっと心に突き刺さるダメを持ち帰った。何よりも、こんなはずでは・・・というのが、短い序曲だからと考えたこと、初手から覆された。作品をきちんと理解するには、最終章が大いにからんでくる、当たり前の話だが当時の私には思い及ばなかった。作品のテーマを常に念頭に置き表現していくことが求められ、私は半年間に数えきれないほど繰り返し読んだ。但し、序曲と最終章だけ(途中は2回くらい読んだだけで飛ばしました、スミマセン)。
 今日の稽古で、又名ダメ出しが生まれた。『ぶっきらぼうに見える文章でも、その隙間にあるものを読み手がとことん探りぬく、日本語を発音するときそこにある無段階ギアをどう調整していくか、(朗読に求められるものです)』
 うぐっ・・・to be continued・・・ 
        カメ子

2016年4月27日


 こんな「本」をみた
 お茶をごちそうになった友人の家の本棚でみつけて、借りてきた。
 『直感を磨くもの   小林秀雄対談集』
 対談相手は、、、三木清、三好達治、梅原龍三郎、五味康祐、横光利一、大岡昇平、今日出海、湯川秀樹、永井龍夫、河上徹太郎、福田恆存 そして、折口信夫
 お湯を沸かしながら、台所で立ち読みして、、直感したこと。
 “折口信夫と小林秀雄は、、、、気が合わない、、ものすごく合わない、、”※見当ちがいだったらすみません。
 福田恆存、、知らない人だけど、面白そうだ。
 暫くお借りする予定。
        カラスノエンドウ

2016年4月18日


 ※昨日の稽古の録音を聞く。いつもながら・・へこむ。おもいきり・・へこむ。
 ‘こんな風に語っていたつもり’が、そのようには聞こえていない=‘そのようには語られていなかった’事がよくわかる。
 確か、昨日の稽古でも、同じような話があって、、それを先生は‘弦をおさえる、鍵盤をたたく、それらの微妙な感覚’にたとえられた。
 前々日の稽古で、駄目だしされた『語部の姥』の語り口。古い時代の人々の身分にふさわしい語り口を先生は歌舞伎などの古典芸能を参考にされたとの話を聞き、、さっそくYOU TUBEで老人が出ていそうな歌舞伎をさがして見てみる。
 皿を洗いながら口真似していたら家人に妖しがられる。
 「姥」に苦心した四章も終了。終了したがもちろん完成ではない。やっとかすか~に入り口が見えてきた程度。櫛部先生の辞書に「完成」の文字は無い。
 朗読を習いはじめたころの事、先輩Nさんが「赤いろうそくと人魚」を稽古していた。物語の最後、赤いろうそくの灯が波間を漂い、やがて山の上のお宮を上がっていく場面で、「その ろうそくの灯を目でおいながら、、(この文章を)声にしましょう」と言われた。
 これが私の「櫛部先生語録」の始まりであった。
        カラスノエンドウ

2016年4月17日


 今日はY子さんが宮部みゆき作『器量のぞみ』を通した。短編とはいえカットを加えても50分の大作。でも、体力気力準備万端、作品への愛着大のY子さんは、最初の一行から物語の世界に連れて行ってくれた。
 作品を読むときも聴くときも、もしそれが舞台や映画になったら・・・と想像することがよくある(これお勧めです)。今回は、主人公の不器量な大女お信に藤山直美・美男の繁太郎に中村勘九郎をキャスティングして、平田満や竹下景子、赤木春恵まで登場させ、そうそう幽霊おくめ役には最近活躍の木村多江をあてて、Y子さんの朗読を30%増しで楽しんだ。
 私の頭の中で勝手に配役され演じさせられる役者さんたち・・・でもそれはいい役者の証ですよね。あ、でも、繁太郎の可愛い妹たちは敢えて未熟な若手タレントを配役した(ので名前は伏せる)。つまり、その人間としての存在感があるかどうか・・・朗読にも求めていきたい・・・ナ。
        カメ子

2016年4月13日


 桜がハラハラと散り急ぐ4月、ふと想う。
私は生まれてこの方、どれ程の人達と出逢い、そして別れてきたのだろう。人と人との縁とは不思議なものだ。櫛部先生の生徒となり、早12年の歳月が流れた。
 思えば一番初めの稽古で「上手に読まないで下さい」の言葉に「えっ朗読で読まないって、どういうこと?」と私は、驚きたじろいだ。
 櫛部先生の朗読、それはまるでひと色ひと色作品に丁寧に色を塗り重ねていく様な作業で、先生の手によって私が1人で演じていては、決して見えない色がどんどん広がって、深みのある味わいへと変化していく。
 今、朗読を教えて頂ける幸せを噛みしめている。
 これからもずっと、この想いは変わらないだろう。
 それにしても、10日に荻窪で朗読された「花と楽人」
 大きな窓の向こうに佇む自然までも味方にして、あたかも演出のごとくに舞っていた桜。
 やっばり櫛部先生は、凄い😊
        らんらん

2016年4月11日


 この世に生まれて半世紀を過ぎ、嬉しいこと楽しいこと、たくさんの幸せな経験をし、それと同じくらい、いやもしかしたらそれを超えるくらい悲しい苦しい辛い思いも味わった。多分人は皆そうなのだろう。
 朗読塾で珠玉の文学作品に出合い、読み進めていく時、そこに私に寄り添ってくれる作者の思いが少しずつ見えてくる。自分一人では決してたどり着けない場所に、櫛部先生があの手この手で引っ張っていってくれる。
 都内の桜は満開を過ぎ、八割方散ってしまった昨日、先生の朗読を聴く幸せに遭遇した。
 桜の古木(の精霊)が『もう私を逝かせてください・・・』と訴える声は、人生を生き切った病床の人に寄り添い、ピークを過ぎたアスリートに寄り添い、又それらの人々を思いやる人の心にしみじみと響いてくる。
 大きな窓を背に小ぶりの椅子に腰かけてその物語を深く豊かに朗読される先生の背後で、山桜の花吹雪が舞い散った・・・嘘のような本当の話である。
        カメ子

2016年4月10日


 荻窪で櫛部先生の「花と楽人」を聴く。
 先生の肩越し、大きくとられたガラス窓の向こうに桜の木がみえる。(その真白い花びらは見慣れたソメイヨシノではない・・)
 物語後半、樹齢五百年という桜は、、うつくしい女人の姿となって 切ない思いを語りはじめる。
 時代は一条天皇の頃。   雅やかな匂いと、妖しさにひきこまれ目を閉じた。
 気が付くと櫛部先生は、先ほどまで語っていた椅子から居なくなり、花吹雪のなか、桜と一体化していた・・・。そのように見えた。
        カラスノエンドウ

2016年4月7日


 今日は月に二回の貴重なお稽古日でした。
 1時から5時まで、7人がそれぞれ取り組んでいる作品は、本当にばらばら。立原えりかから森鴎外まで、どんな作品でも、簡単ではなくて、深い解釈の前に、一言一句をおろそかにできない怖さがあります。
 いつもながら、先生のダメ出しが、作品を、味わい深いものに変貌させていきます。私たち生徒は、自分の読みの浅さに嫌気しながら、なんとか頑張る。
 とにかく時間をかけて、少しずつものにしていく。
 あ~あ、少しずつだけど、今日も面白かった😍
 自分はさておき、メンバーの読みがだんだん良くなっていくのを聞くのも、本当に楽しいです。
 先生、今日もご指導ありがとうございました☺😍
        ムーミンママ

2016年4月2日


 「なにもないねこ」の朗読について一言
 作品紹介で櫛部先生は「かな」だけで書かれたこの作品を「漢字仮名まじり」文にして朗読したとのこと。ところが「かな」だけで書かれた作品をそのまま朗読した時と「漢字仮名まじり」文に書き直して朗読すると受ける漢字が(いや「感じが」ですが)変わってしまうと話されていて、ちょっと気になった。
 確かに、かなだけの文章では,どこからどこまでが一つの単語なのか分かり難いし、区切り方によっては違う意味の単語が見え隠れすることもあるに違いない。それに同音異義語の存在が拍車をかける。そういう文を朗読しようとすれば,「弁慶がな」的な問題と「円陣」、「猿人」、「エンジン」みたいなイメージが,瞬間的に取捨選択され、その結果が声として結実したものが朗読となって聴く者に届くということになる。
 相当の緊張感が朗読者に強いられるだろうし、それを聴く者にもそれが伝わっていく。そういう朗読になるに違いない。
 それと較べると確かに漢字仮名まじり文は、区切りの問題や同音異義語の問題は殆ど気にしなくて良いということなのだろう。
 それは面白いと思うが,だとすると作者の別役さんはどっちを意図して作品を書いたのか?
 今度はそれが気になってくる。
        (高山直)

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